出逢えたから
<file07>
朝食を食べた後、2人はリビングへ移動した。
そのまま本を読み始めた新一が、しばらくしてふっと顔を上げると、正面のソファに座っていたはずの蘭がいない。
「あれ?」
(どこ行ったんだ?)
きょろきょろしてみても、視界に入る辺りにはいなかった。
新一は、テーブルに本を置くと、立ち上がる。
とりあえず、脱衣所の方に向かうと、すぐに蘭を見つけることができた。
「蘭?」
「あ、新一。どうしたの?」
洗濯機から取り出した洗濯物を手に、蘭が新一を振り返る。
「洗濯してくれたのか?」
「うん。私が使ったタオルとかあったし。」
新一が聞くと、にこっと笑って答える。
こういう普通の会話の中での蘭の笑顔が、新一はすごく好きだ。
つられて、新一も笑顔になった。
「サンキュー。」
「新一、あんまり洗濯物溜めないよね。お父さんなんか、絶対自分でやらないんだよ。」
「ははっ、知ってるよ。まー、蘭がいるんだし、いいじゃねーか。」
「うん。でも条件は新一も同じようなものよね?私、ほとんど毎日ここに来てるもん。」
そう言いながら、蘭は取り出した洗濯物を乾燥機に移す。
新一は、蘭の中に培われてしまった感覚に、思わず苦笑いが洩れる。
おそらくコナンを相手にしていたときの名残なのだろうけれど、蘭にとって、新一の洗濯物を洗うのは、全く不自然ではない、あたりまえの日常らしいのだ。
だから、蘭の好意に甘えて洗濯してもらったりもするのだが・・・それこそ新婚みたいで、新一としては、うれしいような、恥ずかしいような、複雑な気持ちである。
こういう蘭の感覚は、食事についても掃除についても・・・つまり生活全般に対して言えるもので、新一が元の姿に戻ったあと、一番戸惑ったものでもある。
コナンのときの感覚では確かに蘭は身内っぽかったけれど、新一に戻ればやっぱり幼なじみ兼恋人だから、なんだか通い妻でもされているみたいな気分なのだ。
・・・もちろん、悪い気分ではないのだが。
バチン!と、蘭が乾燥機のふたを閉めて、勢いよく振り返る。
「よし、次は掃除しよっかな。」
「え、いいよ。そんなに汚れてないし・・・。」
慌てて言うと、コナンに対するような口調で返された。
「だーめ!新一?確かに散らかってないけど、それでも掃除しないと埃が溜まっちゃうんだからね?」
新一の、コナンだったことの後遺症は、こういう言い方をする蘭には逆らえなくなったこと。
「・・・一緒にやるよ。」
「いいよ。こないだも掃除したし、簡単に済ませちゃうから。座ってて?」
そう言い残して、蘭は脱衣所を出て行った。
(・・・ほんとに通い妻みたいだな・・・。)
蘭の後ろ姿を見送りながら、新一は髪をくしゃりとつかみ、一人で赤くなる。
だがその頬の熱は、すぐに引いた。
・・・どうしても、考えてしまう。
留学をすれば、こういう生活もなくなってしまうのだと。
もう、考えたくないのに。
優作が新一に与えた難問のウイルスは、勝手に新一の思考に入り込んできて、どんどん新一を蝕んでいくのだ。
一人でいる限り、追い払えない。
深いため息をひとつつくと、新一はリビングに戻った。
新一はソファに座り、本を読む気にもなれずにぼーっとしていた。
しかし、そのうち、無意識に蘭の気配を探している自分に気づいて、新一は自嘲的な笑みを浮かべる。
蘭から離れたら・・・そう考えるほど、離れるのが怖くなって。
いやだ。離れたくない。離したくない。・・・そう願っている自分を突きつけられる。
抱きしめて、そのまま一緒に連れて行きたいと思わずにはいられない。
(はは・・・、んなことできるわけねーじゃねーか。)
考え続ければ、どこまでも弱気になってしまいそうな自分に呆れて笑って・・・また、ため息をついた。
「新一?最近、ため息多いよね。どうしたのよ?」
掃除を終えたらしい蘭がリビングに入ってきて、心配そうな顔をしながら、新一の向かい側のソファに座ろうとする。
「あ・・・」
「え?」
新一が思わず発した声に、蘭の動きが止まる。
「どうかしたの?」
「・・・いや、ごめん。掃除、サンキューな。」
「う、うん?」
新一の半端な笑顔に、首をかしげる蘭。
そんな仕草もかわいくて、今の新一には少し酷だ。
もっと近くに行きたくなる。
(こっちに座ってくれりゃいいのになー・・・。)
そんな風に思ってこぼれてしまった先ほどの声は、形にならなかったけれど。
新一は、今からでも、蘭の隣に移動してしまいたいと思っている。
もっと側で、蘭に触れたい。抱きしめていたい。
離れなければと思うほど、強くそう思う。
・・・だけど、そんなことをすれば、なおさら離れるのがつらくなるだけだから・・・。
新一は平静を装って、本を手にとる。ページをめくる。
心配そうに見つめている蘭にも、気づいていない振りをしながら。
(蘭がいる・・・その時間が、こんなに苦しいなんてな。)
それでも、やっぱり一番幸せな時間に変わりはなくて。
こちらを見つめつづける蘭の気配がやさしいから。
この場所から、離れる気にもなれない。
(おれ、留学するまで悩み続けるんだろーか・・・?)
・・・冗談じゃない。
そんなばかなことはない。
大切な時間・・・悩んでいるよりも、楽しみたい。
(もう十分だよ。・・・これ以上、考えたくねー・・・。)
蘭がどれだけ大切か・・・これ以上思い知って、どうしろっていうんだ。
離れることには、変わりないのに。
またため息をついた新一に、蘭が悲しそうな顔をする。
それに気がついて、ようやく顔を上げる新一。
蘭の心配を逸らそうと、新一は出来る限り明るく、自然に、読んだ推理小説のトリックなどを話し始める。
新一の意図を理解し、その話に乗っていく蘭は、ため息を心の中に押し隠して。
(・・・こんなのにごまかされると思ってるのかな・・・。新一、私をちょっと甘く見てない?)
ごまかすばかりで何も話してくれない新一に、ちょっとばかり、怒りを感じてしまうのだった。
新一が、ようやくこの悩みから解放されるのは、この日から約一週間後になる。
2000.7.11 ポチ