見つめる先
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「…い、ってぇ〜…。」
 小さく呻く。
 キッドは――快斗は、わき腹を押さえて息を吐こうとして、走った痛みに顔をしかめた。
 一度力の抜けた体は、再び気合を入れるのが困難だ。
 横になってしまいたいが、本当に横になったら最後、起き上がる気力は出てこないという確信があった。
「…くそー、警部、ちょっと重いぞ〜。」
 どうでもいいことを呟いていないと、意識が遠ざかりそうだった。
 よくまぁこんな状況で、中森を抱えてここまで飛んだと思う。警視庁までは、下手したらこの倍くらいの距離があるのだから、中森のリクエストは断って正解だった。
 そもそも撃たれたのが中森を抱えて飛んでいるときだったのだ。
「我ながら、よく落とさなかったよなぁ…。」
 正直なところ、中森が青子の父親でなかったら、そして快斗が日ごろお世話になっている『おじさん』でなかったら、落としていたかもしれないと思う。
 まぁ落とさないまでも、おそらく抱えて運ぶなどという無謀なことはせず、何かで縛った状態でハンググライダからぶら下げて運んだのではないだろうか。
 考えれば、乾いた笑いが毀れた。
 なんにせよ、長い夜だった。
 実際には、どこからか電車の音が聞こえるので、まだ日付が変わる前くらいで、そこまで時間が経ったわけではないのだろう。
 何時か確かめようにも、もう腕を持ち上げる気力もなかった。
「血、止まってっかなぁ〜…。」
 独り言は続く。
 中森を布で隠していてよかったと思った。飛びながら、こっそりと悟られずに止血することができたのだから。
(まぁ、多少ハンググライダーは揺れたけど……。)
 おそらく、中森は風か銃撃のせいだと思ってくれたはずだ。
 その中森は、無事にビルを降りて警察と連絡が取れただろうか。
 考えて、深く息を吐き出した。
 大丈夫だろう。もう、危険はないはずだ。
「…あ〜…オレも帰んなきゃ…。」
 この場合、やっぱり寺井に連絡して迎えにきてもらうべきだろう。そうすれば、きちんと手当てもしてくれる。
 だが、何をするにも少し休まなければ動けそうになかった。
「…このまま寝てぇ〜…」
 冷たいコンクリートの壁にもたれて、空を見上げた。
 流れていく雲が早い。月は太く明るかったが、星の数は少なく、その輝きは儚かった。
 じっとその様子を眺めていると、今日起こったことが脳裏を流れていく。
 自然と、ため息がこぼれた。
「…バカ、やっちまったかなぁ……。」
 隠そうと思えば、隠せたのだ。
 最初に、あの屋敷の屋根の上で視線が合った瞬間はともかく、そのときのことも、それ以降も、ごまかそうと思えばいくらでもできた。
 それなのに。
「どーしてオレ、隠さなかったんだろ……。」
 呟いても、答えは出ない。
 自分でもどうしてなのか、本当にわからなかった。
 ほんの少しだけ湿気を含んだ風が、時折強く屋上を吹きぬける。
 それに前髪を遊ばせたまま、快斗は空を見上げていた。
 肯定したわけではない。今からだってどうとでも言い逃れはできるし、中森にしても、あの様子からして今日のことを手がかりにキッドをどうこうしようとは考えないだろう。
 でも、それでも。
 もしかしたら、というレベルのものでも、勘づかせるべきではなかったのではないか。
「……勘づいて、ほしかった、とか…?」
 微かに口元に浮かんだ笑みが、自分でそうと自覚できるほどに乾いたものに変わる。
「ハ……。」
 思わず声がこぼれた。
 ――違う。勘づいてほしかったとか、そういうことではなくて。
 まるで味方同士のように共に行動していたから、少しおかしな気分になっていただけだ。
 黒羽快斗にも優しくて気さくな、幼馴染のお父さん。
 日常と非日常が交じり合って、だから、ただ……。
「――嘘吐く覚悟くらい、できてたつもりだったんだけど、な……。」
 今までだって、そうしてきた。
 そんなこと、簡単なはずだったのに。
 どうして自分は、あんな、肝心なときに…。
 月が雲に隠れて、また現れる。
「――やめた。」
 快斗は振り払うように呟いて、冷たい壁から背中を起こした。
 今考えごとをしても、きっとろくなことがない。
 こんな日は、余計なことなど考えず、早々に寝てしまうに限るだろう。
 何を考えたとしても、次に会ったなら、きっと何事もなかったかのような今までと変わらない対峙が待っているのだ。
 快斗は深く被っていたシルクハットを無造作に掴んで取ると、胡坐を組んで、ひとつ溜息を零した。
 ポケットから取り出した携帯電話で、暗記している寺井の番号をプッシュした。
 コールにすぐさま応答してくれた寺井に感謝して、快斗は事情を説明する。
 お説教交じりの心配そうな声を目を閉じて聞いて、迎えにくるという言葉に頷くと、再び壁に背を預けてため息を吐いた。
 今日の仕事も終わる。
 この瞬間、いつも浮かぶ笑顔がある。
 どんな声でもいいから、聞きたい、と。
 怒っていてもいい。的外れな言葉でもいいから。
 最近、その衝動が少し強くなっているような気がする。
 快斗は、くしゃりと前髪を握り締めた。


「……あ〜……くそ、しっかりしろよ……。」


 ――決めたのは自分。
 そして、それがすべてなのだから。











2009.6.14 文月 優

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