見つめる先
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 キッドが羽をたたんだのは、7、8階建ての古びたオフィスビルの上だった。
 中森は、屋上に自らの足をついた瞬間、どっと安堵に包まれる。
 ゆっくりと周りを見渡してみて、近くにこのビルよりも高い建物がないことに気づいた。
(こういうところが周到でなぁ…)
 辺りはしんと静まりかえり、時折ビルの下の道路をエンジン音が通り過ぎる。
 飛んできたときは眼下にたくさんの灯りがあり、その光の中に溶け込むような心地だったのに、こうして人気のないビルの上に立つと、先程見た世界はとても遠いものに感じられた。
 都会の真ん中にぽっかりと空いた暗い穴の中に、自分だけ置き去りにされてしまったようだ。
 中森は、ゆっくりとキッドを振り返る。
 ビルの上に立つキッドは、両手をポケットへ入れ、マントを風に遊ばせて、見慣れた姿勢で中森を見返していた。
 なんと言うべきか、中森は一瞬考え込んだ。
 キッドもそうだったのかもしれない。
 そこには沈黙が落ちる。
 だが、それも長くはなかった。
「――これを。」
 口を開いたのはキッドだった。
 言葉と共に、どこからともなく取り出したものを中森に差し出す。
 それは中森に向かって放り投げられることがなく、中森は戸惑いつつもキッドのほうへと足を向けた。
 こんなにも無防備に中森を近づけていいのか、と思いながら。
 今夜限りだからこそ、なのだろうか。
 既に休戦状態を続ける理由はないのだが、中森も、今夜はもうこのままでいいような気がしていた。
 キッドの前に立ち、手を出すと、そこへ1枚のディスクが渡された。
「これは…?」
 中森は渡されたものに視線を落とす。
「郷田の不正の証拠の一部です。」
 驚いて顔を上げる。
 ――まるで、先程郷田の屋敷の屋根の上で起きたことを、再現したようだった。
 キッドと目が合う。
 キッドは、やはりどこか困ったような、仕方ないとでもいいたげな笑みを覗かせた。
(その顔は、…変装、か――…?)
 今度も、視線を外したのはキッドだった。
 すっとさりげなく中森の視線をかわし、視線をビルの外へと向ける。
「書類や物証は、警察のほうが対応が早いと思ったのでそのままにしていたのですが、データだけは一部頂いていたのです。郷田の不正なら、かなりの部分が立証できると思いますよ。」
 その言い回しに、中森はやや視線を厳しくした。
「…後から来た奴等のことは。」
「無理でしょう。そんな間抜けな組織ではないはずです。」
「……そうか。」
 知らず、溜息がこぼれた。
 気を取り直すように、視線を上げる。
 キッドの後ろ姿に向かって告げた。
「助かった。ありがとう。」
 キッドはゆっくりと振り返る。
「貴方からお礼を言われる日がくるなんて、人生何が起こるかわかりませんね。」
 クスリと笑って言われた台詞に、嫌味はない。
 まったく同感だったので、中森は苦笑して、頷いた。
「そうだな。――だが、今日は本当に助かった。感謝する。」
「……いいえ。お互いに、無事でなによりです。」
 穏やかに答えて、キッドがふわりと笑む。
 その表情は、窃盗犯とはとても思えないほどに柔らかく、温かいものだった。
 ――中森の、よく知る少年と…そっくりだった。
(変装の名人、か……)
 だが、と、中森は思う。
 人が作る表情は、その人が積み重ねてきた時間や思い、…その人自身の歩んできた人生にかたち作られているはずだ、と。
 それが、いくら変装が得意でも、こんなにそっくりに笑えるものだろうか。
 かの少年が穏やかに笑う姿は、少年の父親さえ思い起こさせる。
 そう、まさに今、中森の前にある彼のように。
 ――本当に、そこまで真似ることが可能なのだろうか。
 そんなことを考えたからか…半ば無意識に、その名前を口にしそうになって、慌てて思いとどまった。
 そろそろ、こんな時間も終わりかもしれないと思う。
 気持ちを切り替えるように息を吐いて、手にしたディスクをスーツのポケットにしまう。
「…ではな、キッド。」
 静かに告げれば、
「ええ。…気をつけてお帰りくださいね、中森警部。」
と、静かに返される。
 ふと、思った。
「君も、帰るのか――?」
 帰る場所があるのか…?
 と、中森の心配は杞憂だと言わんばかりに、キッドは穏やかに頷いた。
「ご心配なく。」
「…そうか――。」
 ほっと息を吐いて、今度は気合を入れてキッドを睨んだ。
「次に会うときは、容赦せんぞ。いい加減にお縄につけ、キッド!」
 キッドはクスリと笑う。
「容赦しないのは、私も同じですよ、警部。――まだ、捕まるわけにはいかないのでね。」
 そう言って、にくたらしい笑みを見せた。
 少し前ならば、「なんだとぉ!?」と逆上していただろうに、不思議とそんな気分にならず、中森はやはり不思議な夜だなと肩をすくめる。
「じゃあな。」
 短く言って、今度こそキッドに背を向けた。
 キッドは、無言のまま中森を見送る。
 いつもとは逆のシチュエーションは、キッドにもやはり不思議な感覚をもたらした。
 このビルは、キッドが何かあって緊急に降り立ちたいときのために、と、前もって調べてあるビルのひとつだ。今はテナントが入っておらず、不動産会社からも忘れられたように放置されている。
 今日この場所に降り立ったのは、警視庁へ向かいやすい立地で、人目はもちろん、高さがあまりないビルだから。中森が人気がない数十階のビル――そういう場合大抵エレベーターは動いていない――を階段で降りるのでは苦行だろう。
 バタン、と、大きな音を立てて屋上の扉が閉まった。
 扉の向こうから響く、金属製の階段を踏む足音。
 まもなく中森は本当の地上に降り立つだろう。
 その音を聞きながら、キッドは自らも屋上の入り口へと歩み寄る。
 扉の脇に背中を預けて、遠ざかる音を聞いて――……目を閉じると、崩れ落ちるようにしてその場所に座り込んだ。











2009.5.17 文月 優

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