見つめる先
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「おい、キッド!?」
中森は焦って尋ねる。
明らかにキッドよりも体重が重い中森を、無理した様子もみせずに抱えていることも驚きだが、それよりも――。
「ハイ、なんでしょう? あ、動かないでくださいね。」
「あ? ああ…じゃなくて! なんだこれは!」
中森は、ハンググライダーで飛んでいるだろうキッドのバランスを崩さないように気をつけながらも、手を動かして自分に掛けられた布を取り去ろうとした。
だが、思うようにいかない。
「警部、ですから動かないでくださいと…。」
苦笑交じりの声がする。その暢気さは、いつも中森と対峙しているキッドそのままだった。
だが、中森にはそれが腹立たしい。
「わかっとる! それより貴様、これはなんのつもりだ!?」
風を切って飛んでいるはずなのに、中森の視界を覆うものは風に吹き飛ばされていかない。どこかで留められているから、中森がもがいても上手く外れないのだと、遅ればせながら気づいた。
「何、とは?」
おそらくはわかっていて問い返してくるキッドに、ギリ、と奥歯を噛む。
「とぼけるな! この布だ。どうしてこれを被せる!?」
噛み付くように言う中森に、キッドは、ああ、と答えて笑った。
「いくら私でも、これだけ間近で見上げられては顔を隠せませんからね。目隠し代わりです。」
先程のように見られてしまっては困るので、とかなんとか続けているが、中森は『嘘を吐け!』と内心で叫んだ。
変装が得意な怪盗キッドだ。顔を垣間見る程度では意味がないことなど、中森は嫌というほど知っている。
中森にだってわかる。夜の闇の中、白い衣装を纏う怪盗キッドが、おそらくは黒い布を中森に被せて飛ぶ理由――その効果くらい。
それなのに、見当違いの答えを返してくるキッドに、バカにしているのかと再度文句を言おうと口を開いた瞬間、グライダーは大きく傾いて不安定な動きを見せた。
「キッド!?」
「……っと、ハイ。」
声を掛ければ、操縦に神経を使っていたのか、やや間が空いたものの、いつもとなんら変わらない口調で答えが返った。
「警部、少しだけお静かに。話すと舌を噛みますよ。」
「なっ…うわ!」
グワン! と、ハンググライダーは、また軌道を大きく逸れた動きをする。
「あ!? まさか、銃撃か!?」
「ええ。さすがにあんなダミーひとつでは無理でしたね。あ、操縦の腕は確かですから、ご心配なく。」
「誰がそんな心配しとるか!! おいっ撃たれたり…!」
「しませんよ。距離がありますから。大体私を誰だとお思いで?」
悪戯っぽい声に、中森はホッと息を吐いた。
本来捕まえるべき相手に助けられたあげく、その相手が怪我をしたとあっては、いくらなんでも寝覚めが悪い。
そんな思いを読み取ったかのように、キッドはクスリと苦笑した。
「中森警部、お人よしだと言われませんか?」
まるで世間話のように話しかけてくる。
「…誰がだ。言われん。」
憮然と返した中森に、クスクスとキッドが笑う振動が伝わった。
「ふん、笑っていられるのも今だけだぞ、キッド! 貴様はワシが必ず捕まえてやる!」
言った瞬間、またもグライダーが傾いだため、今度は返答が返らなかったが、キッドは小さくクスリと笑った。
「――さて、そろそろ奴等も諦めるでしょう。」
確かに、言われたとおり随分飛んだ感覚があった。それはつまり、現場からも随分離れてしまったということだ。
(仕方ない、か…)
無事だっただけ幸運だろう。
銃弾を避けるために不安定な軌跡を描いて飛んでいたキッドも、すっかり安定した飛行に落ち着いている。
もう大丈夫なようだ、と、全身の緊張がゆるゆると解けていった。
「貴方の優秀な部下達も、無事に撤退したようですよ。」
まさに今考えたことを言われて、中森は思わず苦笑した。
(本当に、聡いヤツだ……。)
だから厄介なのだが、今回は随分助けられたと思う。
「……アイツ等の方も見えていたのか。」
言うと、ええ、と頷かれた。
「私は目隠しをしていませんからね。」
「……ワシは、いつこの目隠しをとってもらえるんだかな。」
キッドは、その多分に諦めを含んだ声に、ふっと苦笑した。
中森から、その様子を見ることはできない。
「どこに降りましょうか。ご希望があればお聞きしますよ?」
中森は、深く溜息を零した。
ふと思いついたことを口に出す。
「では警視庁に頼もうか。」
「……」
答えは沈黙だ。呆れ顔のキッドが見えるようで、中森は少し愉快な気分になる。
肩を揺らして笑うと、グラリとハンググライダーが揺れて、どこか慌てたようなキッドの声がした。
「警部! ……動かないで、ください…。」
息を詰め、吐き出す様子に、この程度の揺れに本気で慌てたのかと、また少しだけ笑う。
「申し訳ありませんが、さすがに警視庁は遠すぎますね。」
実際、キッドは東都タワーから飛んできたのだから、飛べない距離ではないのだが、それはあくまでも一人なら、だ。自分よりも重い人間を抱えて飛ぶのは、さすがに厳しい。
「そうか。それは残念だ。」
中森がまったく残念ではない口調で答えると、ふぅ、とキッドがため息を吐くのが聞こえた。
やけに人間じみた反応がおかしい。いつも幻のように掻き消えるヤツだからこそ。
もっとも、それはあくまでも中森達から見た印象であって、案外彼は中森達と対峙しているときも、こんな自然体でいるのかもしれないが。
身の危険がなくなると、こうしてキッドに夜空を運ばれるという状況が、改めてひどく不思議なものに感じられた。
「――なぁ、キッド。」
「なんです?」
律儀に返事を返す…おそらくは中森よりも随分年下だろうキッドに、中森は無理かもしれないと思いながらも言ってみた。
「…この布を取ってくれ。」
「……。」
今度は予想通り、答えが返らない。困っているのだろうかと想像するとおかしかった。
「戸惑うということは、今の貴様の顔は素顔なのか?」
からかうように、尋ねてみる。
今の怪盗キッドの顔。……先程、あの屋敷の屋根の上で、ほんの少しだけ見たような気がした。
と、静かな声が返された。
「――私が変装が得意なのは、よくご存知でしょう?」
「……そうだな。」
中森が頷く。
溜息がひとつ落ちて、次の瞬間には視界が開けていた。
「……随分、飛んできたな。早いもんだ。」
眼下には大都会の夜景が広がっている。
警視庁は遠いと言いながら、それでも都内までは戻ってきてくれたようだった。
「…綺麗でしょう。」
キッドの言葉に、中森は頷く。
中森達の手をすり抜けて逃げていく怪盗キッドが、いつもどんな景色を見ているのか……一度、見てみたいと思っていた。
同じ上空から見る景色でも、きっとヘリに乗って見るそれとは違うのだろうと。
(まさか、本当に見られる日が来るとはな…)
それだけ、今夜が奇異な夜だということなのだろう。
灯りの落ちたオフィス街の一角を目指し、キッドが高度を下げ始める。
長かった不思議な夜は、ようやく終わろうとしていた。
2009.5.10 文月 優