快斗の家は、ダイニング・キッチンが区切られることなく、20畳強のワンフロアで続いている。
キッチンとダイニングの境は、流し台と調理台の前が胸上程の高さのカウンターになっており、快斗の母は、よくそこから作った料理を快斗に渡す。
コンロの前は壁になっているものの、カウンター部分が広く取られており、リビングダイニングから、キッチンの中がよく見て取れた。
そのキッチンの中に、青子がいた。
「・・・・・・ただいま・・・。」
迷った末、黙っているわけにもいかず、快斗は小さく告げる。
と、やはり同じように考えたのだろうか。
「・・・おかえり。」
と、小さな声が返ってきた。
それに、快斗は思わずほっと息を吐く。
無視されたらどうしようかと思っていたのだった。
少しだけ勇気が出て、快斗は廊下とリビングを繋ぐドアを閉めると、リビングに踏み込む。
そこにあるソファに鞄を投げ出して、学ランの首元のボタンをひとつ外し、くつろげた。
青子は一度家に帰ったのだろう。既に制服ではなくて、私服だった。
いつ頃からか快斗の家にある、青子専用のエプロンをつけている。
『これでいつお嫁に来ても大丈夫よね♪』
そう言って、快斗に意味ありげに笑った快斗の母親の言葉が思い出され、快斗はひとり赤面した。
すぐに、そんな場合じゃないか、と自嘲の念がこみ上げる。
ふっきるように歩いて、快斗はキッチンへ歩み寄り、カウンターに両肘を乗せて寄りかかった。
「晩飯、何?」
少しびくびくしながら、尋ねると、快斗に背を向けて冷蔵庫の中を見ていた青子が、ようやく振り向く。
その顔を見た瞬間。
快斗は、今まで以上に酷い後悔に襲われた。
快斗がどれほど青子を傷つけたのか、その傷跡がはっきりと見える表情だった。
もちろん、青子には、顔に出ているなどという自覚はない。だからこそ、それはなおさら痛々しく映る。
動きを止めた快斗を一瞬だけ見た後、青子はまた、冷蔵庫の中へと視線を戻した。
「・・・ハンバーグとポテトサラダ。」
小さな声で、答えが返ってくる。
「青子・・・。」
快斗は、思わず青子の名を呼んでいた。
びくり、と青子の肩が跳ねる。
それが、ここにいることで、青子にどれほどの緊張を強いているのかを、快斗に突きつけた。
堪らずに、快斗はカウンターを回り込む。
青子のいるキッチンに踏み込んで、上体を屈めたままで息を潜め、動きを止めている青子の肩に手を伸ばした。
先程以上に、青子が身を竦めたのが伝わる。
「・・・青子。」
―――バタン、と、冷蔵庫の扉が閉まる。
青子が、快斗の視線から逃げるようにして、その場に屈みこんだ。快斗の手が、青子の肩から外れて、重力に従い、下に落ちた。
「青子―――・・・。」
名前を呼ぶけれど、その小さな背中に何と言えばいいのか、快斗はわからなくなる。
そんな快斗の前で、カラ・・・と、青子が食器棚の引き戸を開けた。
言葉を掛けるタイミングを逃してしまい、快斗はその場に立ち尽くす。
気持ちだけが焦って、何もできない。
そんな快斗の視線の先で、そこからタッパーを取り出した青子が、立ち上がった。ポテトサラダを入れるのだろう。
青子は、快斗のいる側とは反対から向きを変え、調理台の上にタッパーを置く。
「・・・快斗。」
青子が、とても弱い声で、快斗の名を呼んだ。
快斗は、無言で青子に視線を向ける。
肩から前へと流れたセミロングの髪が、快斗から、青子の表情を隠している。
青子の次の言葉を待つ快斗に、青子は言葉を繋げた。
「・・・ごめんね。青子がおべんと作りすぎたせいで、迷惑掛け・・」
「掛けてねーよ!」
青子が言わんとすることを理解した瞬間、快斗は考えるよりも早く、強い否定で青子の言葉を遮った。
びくっと、青子がまた、肩を揺らす。
俯いたまま、じっと調理台の上を見つめる横顔が、つらかった。
「・・・掛けてねーよ。おれが・・・・・」
素直になれないから。
いつも、からかうことで、全てをごまかそうとしてしまうから。
言葉が、途切れる。
青子は、戸惑いながら、顔を上げた。
快斗の声が、とても苦しそうに聞こえたからだった。
キッチンの入り口の傍、冷蔵庫の前から一歩も中に入ってこない快斗へと、ようやく視線を向ける。
青子の目の前には、その声に違わず、苦しそうな表情で立ち尽くしている快斗がいた。
「・・・快斗・・・?」
らしくない。こんな幼馴染は。
青子は、今の今まで心に重くのしかかっていた昼の出来事も忘れて、心配そうに快斗の目を見つめた。
快斗が、青子の視線から逃げるように顔を逸らす。
それが拒絶されたように思えて、青子は快斗へと踏み出そうとしていた一歩を、踏み出しそこなってしまった。
静寂が、そこに満ちる。
快斗の頬は、切なげに歪んでいて、青子の心も・・・切なさに痛みを訴える。
からかわれて、怒って、追いかけて。
そんな簡単なコミュニケーションで幸せになれるいつもの時間が、とても遠く感じる。
どうしたらいいのかわからず、青子は、快斗をじっと見つめた。
やがて、快斗が口を開く。
「・・・弁当、美味かった・・・から・・・。」
一言言って、黙る。
それきり、また沈黙が降りたが、青子の心を晴らすには、それで十分すぎる程だった。
「・・・ほんと・・・?」
尋ね返すと、視線を逸らしたままの快斗が、小さく肯く。
それを確認して、青子の頬が綻んだ。
視界の端で青子の表情がゆっくりと笑顔に変わっていく様を捉えた快斗の心臓が、跳ねる。
守りたいのは、まさにその笑顔だった。
自分で曇らせていては、世話がない。
自嘲と、幸せと、それから甘い痛み。
そんなものが溢れる快斗の心は、とても厄介なものだ。
自分で制御できず、青子に向かって零れ出していってしまう。
それが、傷つけるものとしてではなく、優しく包み込むものとして、青子に届けばいいのだけれど、なかなか上手くいかない。
快斗は、青子に気づかれないように、ひとつ深い呼吸をしてから、ゆっくりと青子へ視線を戻した。
その視線を捕まえて、青子が口を開く。
「ねぇ、快斗。」
笑顔のまま、けれども少しだけ硬い表情が、青子の中で搾り出された勇気を覗かせている。
そんな様子が、とても愛しいと思った。
「・・・んだよ?」
ぶっきらぼうになってしまう声は、照れ隠し。いくら反省しても、未だに改善できないところ。
「あのね、快斗。快斗って、食いしん坊でしょ?」
なんのこっちゃ、と思った。
思ったが、快斗は、青子が言おうとしていることを察する。
そして、それは自分から言うべきことではないかと思った。
青子に言わせたんじゃ情けねーだろ、と、内心で苦笑して、快斗は口を開く。
「食いしん坊だぜ?・・・昼飯、弁当一個じゃ足りねーくらいには、な?」
きょとんとした青子に、快斗は、はにかむような笑みを浮かべた。
「だから、さ。青子、おれに弁当作ってくれよ。」
目をまん丸にして快斗を見つめてくる青子が、とても愛しい。
誰かのものになんて、絶対にしたくない。
幼馴染の距離で、どこまで許してもらえるのかはわからないけれど、快斗は、青子が頷いてくれることを疑わなかった。
「・・・青子のお弁当なんて、誰も食べないって言ったくせに。」
青子から帰ってきたのは、否定でも肯定でもなく、昼間、快斗が言った言葉。
快斗は、気まずそうに髪を掻きあげた。
「あ、あれは・・・」
視線を泳がせる快斗を、青子はじっと見つめる。
「だから・・・だなぁ、・・・」
言い訳を探す快斗は、とても居心地が悪い。
そんな快斗を見ていた青子が、目元を緩め、ぷくっと頬を膨らませた。
「お昼休み・・・快斗、青子のお弁当、綺麗に食べてくれたから、・・・・・・青子、嬉しかったんだよ?」
びっくりして、彷徨わせていた視線を青子に戻した快斗の前で、膨らんだ頬を僅かばかり赤くした青子が、上目遣いに快斗を睨んでいた。
本気で怒っているわけではないと、すぐにわかるけれど、まだ少し、先程までの落ち込みを残した顔で。
快斗は、困った顔でくしゃくしゃと掻き揚げていた髪をかき混ぜた。
「だから・・・」
「だから?」
青子の目に、いたずらな色が浮かぶ。
快斗は、やられた・・・と、思った。
一体何度、この手で、秘密にしておくはずだった心の断片を暴かれてきただろうか。
(・・・・・・違うか。)
快斗は、すぐに思い直す。
こんなふうにして、青子は、快斗が言いたくて言えずに心の引き出しに仕舞い込もうとしていた気持ちを、そっと引き出してきてくれたのだ。
快斗は、ひとつ溜息を吐くと、目の前で無邪気に自分を覗き込んでいる青子を見返す。
・・・かなうわけない。
だけど、それでも素直に言える快斗ではなくて。
情けないけれど、もう一歩踏み出すには、まだ少し時間が欲しいから。
「・・・・・・青子の弁当は、おれが食べるからいいんだよ。他のヤツが食べられたって食べられなくたって関係ないだろ。」
言った快斗の顔は赤いのに、青子は、ただ眉を寄せて首を傾げた。
「はぁ?」
紅子あたりが見ていたら、きっとおかしそうに笑っただろう。
こういう言い方が精一杯の快斗と、こういう言い方では、意味の半分もわからない青子。逆に言うならば、青子がわからないということがわかっているから、快斗は、こういう言い方だけできるのだ。
なんだかんだで、バランスが取れているのかもしれない。
―――幼馴染の、崖っぷちで。
とても危ういバランス。
崩したくて、崩したくなくて。迷いながら揺れている。
「なぁ、夕飯、あとどれくらいでできるんだ?」
話を逸らすように、快斗は話題を変える。
青子は、はっとしたように、用意しかけのキッチンへと視線を向けた。そして、そのまま視線をリビングの時計に移す。
「ああーーーっ!もうこんな時間なのぉ?どうしよう、間に合わないよ!」
慌てて、水道のレバーを降ろす。勢い良く出る水にも、もう青子の元気は負けない。
「ああ?なにイキナリ叫んでんだよ!?」
青子が単純で良かった・・・と、快斗は思わず安堵する。
手早く料理を再開する青子にとって、先程までの会話は、もうすっかり思考の彼方だろう。
「今日ね、青子見たいテレビがあるの!それまでに帰らなくちゃいけないはずだったのに〜!」
「テレビだぁ?」
なんだよ、そんなことかよ、と、青子の叫び声に結構真剣にどうしたのかと息を詰めてしまった快斗は、脱力する。
それから、青子が料理を作ったら帰るのだと気づいて、なんだかむっとした。
「別に、そんなのウチで見てきゃいいじゃん。」
「だって、そうしたらお父さんのご飯作るの遅くなっちゃうよ!」
喚く青子を無視して、快斗は青子が冷蔵庫に戻そうとしていた材料を取り上げ、マジックの要領で手早く下ごしらえをすると、青子が用意している鍋に、材料をぽいぽいっと放り込んだ。
「快斗?そんなに食べるの!?」
目を丸くして快斗を振り向いた青子に、快斗は心情を悟られないように、呆れ顔を装った。
「バーロ、んなわけねーだろーが。」
言うと、キッチン上部の戸棚を開け、いくつかのタッパーを取り出した。
料理の邪魔にならないように、調理台の向こうにある、ダイニングとの境のカウンターの上に、それを並べる。
「ここで3人分作ればいいだろ?ウチに持ってきてくれるときみたいに、オメーの家に2人分持って帰れよ。」
ただ、もう少し一緒に居たいだけなのだけれど、もっともな理由をつけて、快斗は青子の反応を窺った。
青子は、ぱっと顔を輝かせる。
「そっか!快斗、あったまいい〜!」
あまりに素直に感嘆してくれた青子に、快斗はやや後ろ暗さを感じながらも、ほっと緊張を緩めて、笑った。
「だろ?おれってあったまい〜♪」
「何調子に乗ってるのよー?」
そうと決まったら、頑張らなくちゃ!と、腕を捲り上げた青子に、快斗はキッチンを追い出された。
「待っててね、すぐ作るから!」
「へいへい。食えるもん作れよ?」
「どういう意味よぉ、バ快斗!」
膨れる青子に、快斗はカウンターの前に戻って、ニシシと笑う。
「こないだ塩入れ忘れたの、誰だっけ?」
「い、一度だけじゃないっ!」
いつものように、からかえる。ふざけて、笑い合える。青子が、楽しそうに料理してくれる。
快斗は、良かった・・・と、心から安堵した。