翌日、青子は早起きをして、快斗と約束した通り、自分の分と快斗の分のふたつのお弁当を作った。
昨日までは、昼休みが来るまで鞄の奥に隠されていたお弁当箱は、窮屈なそこから脱出して、青子の片手にある、お弁当用の小さなトートバッグの中に納まることになった。
毎日、迷っていた。
迷いの分だけ、鞄の底に押し込まれたお弁当は重かった。
今は、重くない。
そのことが、殊の外青子は嬉しかった。
だから、今朝の青子は笑顔を惜しげもなく振りまいていて、それは教室に入ってきたばかりのクラスメートの視線を引きつけた。
「なぁに?随分嬉しそうじゃない、青子。」
いつも青子とつるんでいる恵子が、みんなの疑問を代弁するかのように、開口一番に青子に尋ねた。
何か楽しいことがあると、浮かれた足取りで青子の机の前にやってきた恵子を、青子は椅子に座ったままで見上げる。
「え、な、なんでもないよ?なんとなく、ほら、今日お天気いいし!」
恵子に答えるその頬は、僅かに紅潮していた。
そんな素直な反応を見せる青子が、恵子はとても好きだった。そんな青子を見ているとほっとして、とても優しい気持ちになる。そして、何より心にほんわりと暖かな灯火が灯るような気がして、自然と笑顔になった。
「ふふ。青子、そのバッグなぁに?」
学生鞄の他に、もうひとつ、青子の机の横にはバッグが掛かっていた。その場所に掛けるには少し立体的過ぎるそれは、微妙に傾いている。
青子は、先程からその傾きを気にしていた。
残念なことに、江古田高校は、教室にロッカーがない。廊下には一応個人ロッカーなるものがあったが、日中、特に午前中は、廊下の窓からいっぱいに日が差し込み、その恩恵を目一杯受けるそのロッカーは、晩夏とはいえ、まだまだ日差しの強いこの季節に、食べ物を保管するのには向かなかった。
そんなわけで、ご機嫌で登校した朝から、青子の小さな悩みの種となっていたバッグは、机と机の間を通る生徒から守るように、青子の学生鞄の内側にぶら下げられたままだったのである。
恵子に指摘されて、青子は照れるよりも先に、このバッグをどうしようかという問題に思考を支配される。おかげで、今度は顔を赤面させることにはならなかった。代わりに、そこから通路と机ひとつを挟んだ窓際の席で、青子と恵子の会話を聞きとがめた快斗が、ひとり赤くなる。
快斗が、つい、と、ごまかすように視線を窓の外に逸らすと、その窓に、あまり歓迎したくない人物が教室に入ってきたところが映った。快斗が、微かに眉を顰める。
その間も、恵子たちの会話は続いていた。
「あ〜おこ?」
「あ、あ・・・うん・・・。その、お弁当なの、コレ。」
恵子に覗き込まれた青子が、今気づいたかのように照れを見せて答えると、恵子は、少し驚いた顔をしてから、非常に嬉しそうな顔で微笑んだ。
「そっかぁ。仲直りしたんだね、青子。」
「・・・うん。」
今度こそ、はっきりと赤くなった顔を伏せて、青子は答えた。
「良かったね。」
それもまた、ほぼ9割のクラスメートに共通した感情だった。昨日、青子のお弁当の件で、青子と快斗がケンカをしたのは、教室にいた皆が知っているのだ。
ご機嫌な青子が教室を潜ったときから、青子自身は気づかなかったが、快斗がヤキモキする程度にはクラスメートの意識が青子へと向かっていたのは、昨日のケンカの行方を、ほぼ皆が心配していたからだった。ちなみに、仲直りを素直に歓迎できない一部とは、青子に、または快斗に密やかに想いを寄せる方々の中の、ほんの数名である。
ケンカが無事に仲直りという形で決着したことに、青子を心配げに見やっていたクラスメートは、くすぐったいような安堵を感じ、隣にいる友人と柔らかな笑みを交わして、自分達の会話に戻っていった。
歓迎していない人達にしても、それはそれで一応の決着を見たわけで、相変わらずだと諦めの溜息と共に、意識を解放した。
青子は、恵子にそのお弁当の置き場所について困っていることを打ち明ける。簡単な棚が教室の後ろにあったが、そこにポツンと快斗のお弁当を置くのは、心もとなくて嫌だった。なにより、自分の手を離れてしまうのは避けたいと思ってしまう。そのくらいには大事なモノなのだ。
恵子が、眉を寄せる青子を見て、柔らかく苦笑する。
それから、少し体の位置を移動させると、ひょいっと青子の机の中を覗いた。
「あ、青子。コレ出せば机に入るよ?コレ、私が持ってようか?」
言われて、青子は目を輝かせる。椅子を引き、上体を横に折り曲げて机を覗くと、確かに恵子の言うとおり、一部を整理するだけでお弁当箱が入りそうだった。恵子が言ったコレとは、近く迫った文化祭で使う衣装を作るために家から持ってきた裁縫箱だ。中学生になったときに家庭科があるというので学校を通じて購入したそれは、お弁当箱よりもふた回りほど大きい。
ほっと表情を緩めた青子が、それでも伺うように姿勢を戻して恵子を見上げた。
「いいの・・・?」
恵子も同じように裁縫箱を机に入れているはずだった。ふたつ入るほど、机は大きくない。
と、恵子はにっこりと笑って、頷いた。
「いいよー。私、ロッカー空っぽだもん。そこに入れておくから!青子、使うときは言ってね?」
少し首を傾げて言えば、青子がぱっと笑顔になった。
「うん!ありがとう、恵子!」
クスリ、と恵子が笑う。ちらりと窓際に視線を流すと、一見余所見をしているようで、その実、窓に映して青子を見ている快斗がいる。気づいて、恵子が「ふふっ」と笑みを零すと、窓越しでも気づいたのか、向こう側を向いたままの快斗の耳が少しだけ赤くなって、さらに恵子の笑みを誘った。
「恵子?」
突然笑った恵子を、青子が不思議そうに見上げる。
「なんでもな〜い♪」
もどかしくて危なっかしくて、けれども見ているだけで幸せになれてしまうこの2人が、一体いつ、どのようにして幼馴染を卒業するのか。それが楽しみで、恵子は笑い出しながら、背中に腕を組んだ。
一方、恵子が見せた笑みに、青子を見つめていたことを気づかれたと内心で酷く慌てた快斗は、それでも表面上は耳を赤くするというだけの変化に留めて、周囲に気づかれないようにそぉっと息を吐き出すことで、零れかける深い溜息をやり過ごす。
だが、そこで、先程窓によぎった人影が自分の真横に立ち止まったことに気づき、緩んでいた頬を一瞬で硬くした。
「機嫌がいいですね、黒羽くん。」
無視してやろうかと思うよりも早く、快斗は反射的に振り向き、そこに立ちはだかる白馬を睨みあげていた。
「ああ?誰のことだよ、そりゃ。おれは誰かさんのお陰で機嫌最悪だけど?」
あからさまに敵意のある快斗の視線を受けて、白馬は片眉を上げる。
「ああ、昨日青子さんとケンカしたからですか?」
ふっとわざとらしい笑みを浮かべる白馬に、快斗の目はますます険しくなる。
白馬は、実際に表情に表している皮肉を多分に含んだ笑みとは百八十度違う、穏やかで深い笑みを、内心に隠して笑った。
「でもあれは、君がいけないのではないかと思いますけど。」
珍しくも感情を露わにして自分を見るこの男が、自分にプラスの感情を持っていないことは、白馬自身良く知っていた。知ってはいたが、快斗の感情がどうであれ、白馬の快斗に対する認識は以前ほど悪くなかった。
快斗が怪盗キッドだと確信すればするほど、なぜか高校にいる快斗への見方が変わっていくのだ。
夜の闇の中、寸分の隙も見せずに駆け抜けていく怪盗が、昼の太陽の下ではなんて隙だらけなのだろうか。
あれほど器用に人の心理を読み、それを操る人物が、たった一人の少女に対すると、一体どこまで不器用になってしまうのか。
つい、からかいたくなってしまうのは、昼と夜のギャップのせいだけではなく、彼の持つ雰囲気そのものが、結局白馬は嫌いではないからなのだろうと思う。
もっとも、黒羽快斗という男が面白くて気に入ったからといって、探偵として、夜の勝負に手を抜くつもりは全くないけれど。
ふっと、心に押し込めておいたはずの笑みが、表情に零れる。
それ見た快斗は、思いっきり嫌そうに眉を寄せた。
テメーにだけは言われたくねーよ、と、その目が語っている。
どうやら昨日の自分が素直じゃなかったということ、そしてそのために幼馴染の少女を傷つけたのだということは、彼の中でも自覚があるらしいと、白馬は察した。
湧き上がる笑いを堪えきれない。
きっとこの笑いさえ、快斗から見れば腹が立って仕方ないのだろうと思うと、益々楽しくなってしまう。
もしかしたら、自分の性格は結構歪んでいるのかもしれないと、白馬は考えた。
感情豊かな快斗の表情に苦笑が浮かぶ。
追い討ちをかけるようだと思いながらも、白馬は再び口を開いた。
「素直じゃないのも程ほどにした方がいいですよ。とんびが油揚げ、なんてことになりたくないのでしたらね。」
彼女をかわいいと思っている男はたくさんいる。
快斗の存在を知ってなお諦めることを知らない男も。
彼らはいつだって、隙あらば快斗から青子を攫ってしまおうと狙っているというのに。
それを知っていて、幼馴染から抜け出したいと思いつつ、未だに幼馴染であるが故の関係に甘えている、彼自身の矛盾。
それを指摘するつもりで告げる。
もちろん彼自身そういった自覚は余るほどあるに違いないが、人から言われたときの苛立ちや焦燥は、また別だろう。
それを恐らく一番言われたくない相手から言われれば、負けず嫌いの彼のこと、相当悔しいに違いない。
白馬がそれを口にするのは、意地悪・・・だけではない。少なからず楽しんでいるのは否定しないが、見ていて微笑まし過ぎるくらいの二人が、少しだけもどかしく感じたりもするからだった。
一歩踏み出せば、きっともっと幸せな毎日が待っているのだろうに。
もっとも快斗にしてみれば、それができれば苦労しない!・・・といったところだろうが。
白馬の言葉にさらに睨んでくるかと思った快斗は、けれども無表情になって黙り込んだ。
おや・・・、と白馬は目を丸くして、視線を逸らした男を見下ろす。
それから、快斗が見ていないのをいいことに、柔らかな笑みを口元へと覗かせた。
本当に、呆れるくらい不器用だ。
らしくないほどに必死で、余裕がない。
でも、それが妙に彼らしく見えたりもするから不思議だった。
ちょっと苛めすぎましたかね、と、白馬はこっそりと苦笑を零す。
ふと視線を感じて顔を上げれば、クラス一の美女がキツイ視線を放っていて。
白馬は、軽く肩を竦めた。
それからもう一度快斗へと視線を戻して、口を開く。
「まぁでも、とりあえず、公明正大に彼女のお弁当を食べられるようになって良かったですね。」
それは、本心からの台詞。
けれどもきっと、彼には特上の皮肉にしか聞こえないに違いない。
そう思うと、またおかしさがこみ上げてきたけれど、かみ殺した笑みは、すっかりそっぽを向いてしまった快斗に見られることはなかった。
それ以上声を掛けることなく、白馬はその場を離れる。
そして、持ったままだった鞄を置こうと、自分の席へ向かった。
すぐに、先程白馬と快斗のやり取りを見ていた少女が近づいてくるのが視界に入る。
白馬が顔を上げると、少女は冷めた目で、溜息を吐いた。
「おや、あなたも朝から不機嫌ですか。」
白馬がおかしそうに声を掛ければ、少女・・・紅子は、その美しい眼差しで白馬を睨む。
綺麗なだけに、冷たい印象を与える眼だが、その奥に覗く優しい色が、白馬は結構気に入っていた。
「・・・呆れているだけですわ。」
白馬の横まできた紅子が、心持ち潜めた声で言葉を返す。
「おもしろいのはわかりますけれど、毎日やりすぎではなくて?」
眉を顰められたのに、白馬は飄々と肩を竦める。
「おや、あなたのような美しくて賢い方に、そのように言われるのは心外ですね。」
紅子の目が、先程とは違う意味できつくなる。
「僕としては、褒めていただきたいくらいなんですが。」
続ければ、呆れた、といったように、紅子は再び深く息を吐いた。
「もう少し素直なやり方はありませんの。」
「この方が彼向きかと思いまして。」
紅子は、悪びれず告げる白馬に、一瞬絶句して、それから、溜息をひとつ。
ついでに、先程の意趣返しのように、様になる仕草で肩を竦めてみせた。
「・・・そうね、間違えても感謝はしてくれなそうだし、どの手段でも同じと言うならそうとも言えるかしら。」
淡々とした紅子の言葉に、白馬は苦笑する。
冷めた態度を装いながら、紅子の青子の見る目が優しいことを、白馬は知っていた。
「・・・それで結構でしょう。彼も、僕から恩を売られるくらいなら、喧嘩を売られた方がまだいいに違いありませんよ。」
一瞬合う視線。
この瞬間が心地いいと感じるのは、きっと自分だけだろうと、白馬は思う。
すぐに伏せられた視線。
もう一度、深い溜息が吐かれた。
そのまま、紅子は興味をなくしたように、するりと白馬に背を向ける。
同時に教室に入ってきた教師の一声で、教室内にガタガタと席に戻るざわめきが起こり、今までの空気と間を隔てるような、聞きなれた号令が響いた。