ゆったりと流れていく雲。
そのおおらかな時の流れが、心の棘を抜いていく気がする。
快斗は、誰もいない広い屋上で、大の字になって転がっていた。
広げた両手で、空を抱いているような気持ちになる。それから、自分の方が空に抱かれているのかと思い直した。
深く息を吸い、肺の底に溜まった重苦しい何かと共に、長く吐き出す。
ぼんやりと眺める視線の先で、薄い雲が分かれ、また交じり合って、流れていく。
もう、青子は帰ったのだろうか。
快斗は、先程から何度も思い出している、青子の表情を再び脳裏に描き、溜息を吐く。
青子の傷ついた視線に耐え切れなくて、フォローもせずに教室を逃げ出したときから、随分経つ。
屋内へと続く扉のある建物だけが、屋上に影を作っているのだが、快斗が上ってきたときには遠くにあったその影が、今は、快斗の顔に半分だけ掛かっていた。
快斗の感じる気温も、日の当たる右と、当たらない左では違う。
夜の自分と昼の自分が、そこに同居しているような錯覚を起こすそれに、快斗は心の奥で、ひっそりと自嘲した。
屋上に立つポールに括り付けられたスピーカーから、間延びしたようなチャイムが流れる。下校時刻を知らせるその音は、帰宅部が粗方帰った後に流れるものだ。
青子は、どうしただろう。
「・・・・・・美味かったよ・・・。」
ひとり、呟いてみる。
昼に食べた青子の手作りのお弁当。
青子は、バタバタ走り回っているその様子から受ける印象とは離れているかもしれないが、家事がとても得意だ。
たぶん、それを知っているクラスメートは少ない。そんなささやかなことに、快斗は優越感を感じていることがある。
青子の料理が美味しいことも、快斗はよく知っていた。
楽しそうに歌を唄いながら、キッチンに立つその後姿さえ、見慣れたものだ。
「白馬なんかに、食わせるなよな・・・。」
ポツリと口にする本音。
味だけではなくて、青子の料理を口にできる幸せも一緒にもらう快斗は、白馬があの料理を快斗以上に大事に、そして美味しく味わうことができるなどとは、微塵も思わない。
だから、今日白馬に言われた台詞は、酷く気に障った。
けれど、こんな場所でしか素直になれない自分が、何を言えるだろう。
この気持ちを、青子本人を前にして言えるほど、快斗は大人にはなれない。まして、幼馴染という、進めば進むほど狭くなっていく気がする道を歩くことが精一杯な快斗にとって、こんな本音は、細い道でバランスを取るためには、とても口にできることではなかった。
ごく普通に言えるようになれたらと、思わないわけではない。が、踏み出すほどの勇気は、未だに持てずにいる。
夕方になり、涼しくなってきた風が、快斗の髪をふわふわと揺らした。
気がつけば、いつのまにか全身がすっかり日陰に入り込んでいる。
空の雲も、まもなく色を変え出す時刻だろう。
快斗は、しばらくじっと空を見つめてから、むくりと上体を起こした。
投げ出した足の間に手を下ろして、ひとつ息を吐く。
気分が晴れたわけではないけれど、随分と落ち着いた気がする。
そろそろ帰ろうという気になって、立ち上がり、お尻やら背中やらを軽く払った。
快斗の頬を、僅かに色味がついてきた日差しが照らしている。
大きく伸びをしてから、快斗はゆっくりと屋上を後にし、階下へと降りていった。
「・・・なんでいるんだよ・・・。」
それが、快斗が自宅の玄関を入ってからの第一声だった。
見覚えのありすぎるダークブラウンのローファーが、扉を開けた快斗の視界に飛び込んできたのだ。
思わず呟いて、動きを止める。
それから、いつもはある母親の靴がないのに気づき、状況を察する。
玄関の扉を閉めるのも忘れたまま、快斗は、廊下にある、リビング・・・そしてキッチンへと続く扉を見やり、唇を結んだ。
昼間のやりとりのあとで、一体何を言えというのだろう。どういう態度を取れと?
それでも、キッチンにいる青子は、玄関の扉が開く音で快斗の帰宅に気づいているはずで、今更また出かけるわけにもいかない。
・・・気づいて、いるはずなのに。
いつもなら、元気に迎えてくれるはずの笑顔が、一向に出てくる様子がないことが、また快斗の気持ちを沈ませた。
自業自得という言葉を噛み締める。
微かに聞こえてくる水道の音などから、青子が、快斗の母に、夕飯を頼まれているのであろうことがわかった。
あんなことがあったあとで、一体どんな気持ちで作ってくれているのだろうか。
傷つけたに違いない自分の言動を、快斗は深く後悔する。
ともかく、いつまでもここで立ち尽くしているわけにはいかないと思い至り、快斗はようやくドアを閉めた。
靴を脱ぎ、玄関へ上がる動作が、いつも以上にゆっくりになってしまう。
ただそれは、気まずいからであって、決して青子に会うのが嫌だからではなかった。
居るはずがないと思いながら戻った教室で、やはり青子の姿がないことに落胆して、明日一体どう声を掛ければいいのかと、深く溜息を吐いていたくらいなのだ。もしかしたら、自分は本当に何のフォローもできずに、青子を傷つけたままにしてしまうのだろうか、と、帰り道でも、ずっと俯いていた。
考えながら、快斗はゆっくりとリビングへの扉の前に辿りつき、立ち止まる。
戸惑いは一瞬。
明日を待つことなく切っ掛けができたことに、感謝するべきなのだろうと思った。
ここに、白馬のように二人の会話を邪魔するものはいない。
挙げた手でノブを握り、快斗は覚悟を決めて、それを回した。