夕焼け




コナンは困惑していた。
蘭が、コナンの正体を知っていると明かす理由も、そのうえで「コナンくん」と呼ぶ理由もわからない。
何を言えばいいのか、自分が何を言いたいのかもわからず、コナンは蘭を見返した。
明かりをつけていない室内では、置かれた観葉植物の影が長く伸びて奥の壁に届いている。
少しずつ長くなる夏の西日は、まだ強く、それでいて優しい。
蘭は、そのオレンジの光を纏って、クスリと小さく笑った。
瞬いたコナンに微笑む。
「ごめん、ちょっと意地悪だったかな」
「は…?」
コナンは目が点になった。
(意地悪、だったのかこれ?)
いや、それ以前に、これは意地悪といえるのか?
コナンは真っ白になりそうな頭を、なんとか働かせようとして、見開いた目をパチパチと瞬いた。
「蘭ねーちゃん?」
ややもすれば半目になりそうな声で返した言葉は、自然とコナンが蘭を呼ぶときの呼び名になった。
「うん?」
と、蘭は楽しそうに頷く。
蘭の顔半分は見えるけれど、あとの半分は陰になって見えない。
だから、コナンは蘭の表情や感情を完全に捉えることができず、いつものようには振舞えなかった。
蘭の名を呼んだきり、それ以上何も問いかけてこないコナンに、蘭は苦笑する。
窓辺に預けていた上体を起こすと、おもむろに切り出した。
「私が書いた短冊、見た?」
「へ?」
またもコナンは会話についていけない。
とりあえず、会話の主導権は蘭にあるものと割り切って、コナンは蘭の問いに答えるためだけに思考を回した。
「え…と、見てないよ」
そもそも椅子でも持ち出さない限り、手が届かない。
蘭はそれをわかっていたようで、そっか、と頷いた。
「短冊にはね、……私、コナンくんともっと話したいって、書いたの」
「…え……?」
言われたことの意味がわからなかった。
「蘭ねぇちゃん? え、だって今…?」
話している。今も、今までも、毎日のように。
(コナンが消えるのが寂しいってことか…?)
それならわからなくもない。そうなる前に、もっと話したいというのも。
だが、何かニュアンスが違う気がした。
コナンは内心で頭をひねった。
(そういやさっきも、オレが自分のこと話してくれないとか言ってたっけ…)
学校であったことはともかく、これができるようになって嬉しいというのは、コナンが新一だと知っていたとすればおかしな言葉だ。
もしかしたら、あれも蘭の「いじわる」に入るのだろうか?
見返したコナンに、ずっとコナンを見つめて待っていた蘭は、クスリと小さく笑った。
蘭としても、別にコナンを追い詰めるつもりなどないのだろう。
あっさりと答えた。
「うーんとね、コナンくん、少年探偵団の皆と私とで、ちょっと態度違うでしょ?」
「……違う、っけ…?」
首をかしげたコナンに、蘭はコクリと頷いた。
「うん。うまく言えないけど、私の前では『小学校1年生の男の子』を演じてるんだなって」
「……」
「コナンくんって、もっと…ほんとはいろんなことを考えられて、いろんなことができて…でも、私の前では、それをコントロールしてる」
コナンは、黙って蘭を見返した。
蘭の言いたいことが、少しずつわかってくる。
蘭は、工藤新一として振舞えと言っているわけではない。
ただ、過剰に演じているのではない、素顔のコナンが見たいのだと…いうのだろう。
コナンは、眉を寄せて考え込んだ。
(っても、コナン自体を演じてるっつーか…)
そんなコナンの表情に、蘭は申し訳なさそうにコナンを見る。
「やっぱり、私が言ってること、わからないかな?」
コナンは、咄嗟に首を振った。
「わからなくは…ないよ。ただ、その…」
コナンは情けなく眉を寄せて、唸った。
「つまり、“素”の僕…ってことだよね? でも、それが僕自身わからないから…」
だから、蘭の言葉にどう答えればいいのか、よくわからない。
結構長くコナンとして過ごしていて、常に演じるのが当たり前だったといえばそうだし、逆に何も考えず、それこそ『素』の状態で蘭の前にいるのは、演じてることも含めて、今の状態だったりもする。
「…特に何かを変えてるつもりって、ないんだけどな…」
つぶやくように言うと、蘭は驚いたように目を丸くした。
「そう、なの…?」
「う? …う、ん…」
驚かれるような返事を返したのかと、コナンは内心で首をかしげながらも頷く。
蘭が、あの工藤新一がコナンの姿だとこれが素なのか、と思ったことなど、知ることもなく。
「でもほら、コナンくん、元太くんたちといるときは『オレ』って言うじゃない?」
「そっそれはそうだけど!」
「博士の前でも」
「うっ……そりゃまぁ…博士は、知ってたから…」
「あ、そっか…」
蘭は納得したように頷いた。
「うーんと、じゃあコナンくんが家で『僕』って言うのは、それが自然?」
「…たぶん」
蘭がコナンの正体を知っているとわかった今でも、じゃあ唐突に『オレ』と言い換えるかというと、違うように思う。
(っつーか、蘭の前で『オレ』っつったら、口調も何も、まるっきり工藤新一になるよなぁ)
そうすれば確かに『素』だけれど、蘭が要求している『江戸川コナンの素顔』とは違う気がする。
「蘭ねーちゃん、難しいこと言うね…」
思わず零したコナンに、蘭は一瞬きょとんとした後で、小さく吹き出した。
「そうかな?」
「そうだよ!」
半目で睨むコナンに、蘭は小さく舌を出す。
「だって、ちゃんと話したいなって思ったんだもん。…今みたいな一言だって、コナンくん、私には絶対言わなかったでしょ?」
「…そー…かもしれないけど……」
確かに、コナンが言う苦情や文句は、たいてい小五郎に向けてのものだった。蘭に言ったのは、森の中で迷ってくれたときくらいだろうか。
「…あ〜、そういうことか」
「コナンくん?」
「いや…うん、わかった」
コナンは、蘭を見て困ったように苦笑した。
「なにを?」
「蘭ねーちゃんが言いたいこと。要は僕が言いたいことを言えばいいってことでしょ?」
難しく考えすぎたのだろう。コナンとしてとか、どこまでがコナンの素顔なのだろうとか。
そういうことではなくて、ただコナンが蘭に対して飲み込んできたたくさんの言葉を、本当は聞きたかったと、…蘭はそう言っているのだろう。
だいたい振舞いに関して言うならば、コナンの正体を知ってからの蘭だって、コナンに対して新一に対するようには接していない。
蘭も、コナンの言ったことがなんとなくわかったのだろう。
「あ、そうかも」
と、あっけなく頷いた。
なんとなく、コナンはがっくりと肩を落とす。
なんだかぐるぐると考えた分だけ、疲れたかもしれない。
「で?」
「え?」
「そう言うってことは、聞きたいこととかあったんじゃないの?」
「え?」
蘭はもう一度同じように首をかしげた。
「うーん、そういうのとは違うよ。普段コナンくんが考えてたことが知りたいなーと思っただけで」
「僕が考えてたこと? 例えば、蘭ねーちゃんが、また体調悪いのに無理してる。どーすれば休ませられるかなーとか?」
「……ちょっと、コナンくん?」
1オクターブ低くなった蘭の声に、コナンは歯を見せて悪戯っぽく笑った。
「それも考えてたことだよ?」
「もう〜無茶ばっかりするのはコナンくんの方じゃない…。……ほかには?」
蘭は、ひとつため息を吐いて、気を取り直したように尋ねる。
コナンは少し首をかしげた。
「いきなり言われてもわかんないよ」
「そう?」
蘭もコナンと同じように首を傾げた。
「あ、じゃあコナンくんが困ったこと!」
「えー、もう少し違う話にしようよ」
「いいじゃない! ほら、旅の恥はかきすてって!」
「それ意味違うよ。そもそもほめられた言葉じゃないでしょ…」
開放感を味わうという程度ならばいいが、…そもそも本当に今使われたくない。
工藤新一は、江戸川コナンとして旅をしていました、なんて、おもしろくもなんともない。
蘭は、クスクスと笑い声を立てつつ、引くつもりはないようで、「ね?」とコナンに微笑んだ。
「困ったこと」
「えー…」
コナンは、うんうんと唸る。
「それはまぁ…たくさんあるけど…。あー、ほら、うっかり人前なのに推理しちゃったとき、とか」
再び蘭が吹き出した。
「そういえば〜! 明らかにおかしい言い訳してたよね」
「笑うなっての! ほんとに困ったんだよ…」
ハンパに乱暴な口調になりつつ、コナンが膨れると、蘭はますます楽しそうに笑った。
「そうそう、こないだテレビで言ってたよ、とか、常套句だったよね」
「…蘭ねーちゃん、そういうことは忘れていいんだよ?」
にっこりと、わざとらしく笑い返したコナンに、蘭は穏やかな微笑みを向けた。
「いやよ。…忘れないもん」
「……」
――コナンの負けだ。
「あとは?」
「…いくつ聞くつもり?」
「たくさん」
「あ、そう…」
「ほかのこともね」
「え…」
思わず口を開けたコナンに、蘭がクスリと笑う。
「ちょっと待っててね。お父さんに言ってくる。今日は出前ですーって」
「…蘭ねぇちゃん……」
呆れ顔をしながら、心のうちでコナンは、そんなに聞きたかったのか、と思う。
そんなに、今コナンが何を考えているのか、と、聞きたくて聞けずに、飲み込んできたのだろうか、と。
はぁ、とコナンはため息を吐いて、テーブルにひじをついた。
蘭はすくりと立ち上がって、玄関から階下へと駆け下りていく。
軽やかなその音を、コナンは耳を澄ませて聞く。
目を閉じ、コテンとテーブルに頭を載せた。
どんな思いでいたのか…本当は、コナンだって蘭にたくさん聞きたい。
けれどもきっと、それは工藤新一の役目なのだろう。
(戻りてーな、早く…)
気ばかり急くけれども、蘭の言葉を聞いて、今の自分を取り巻く状況に改めて目が向いた。
(コナンとして、か…)
目が覚めたような気分だった。
元の姿に戻れることがわかって、カウントダウンが始まってから、まるで夢の中にいるような感覚が強くなっていたから。
けれども、これは夢ではない。
本当は実在しないはずの江戸川コナンも、今確かにこの場所に生きていて。
関わった人たちがいて、いろいろな思いを受け取っているのだという事実。
それを、忘れてはいけない。
(…オレ、やっぱ成長してねーのかな…)
自分のことに手一杯で、周りが見えていなくて、突っ走って。
…ちょっと落ち込むコナンである。
再びリズミカルな足音が聞こえて、むくりと身を起こし振り向いたコナンの視線の先で、扉から蘭の笑顔が覗いた。



「考えた?」
再び先ほど座っていた場所まで戻った蘭が、腰を下ろしながら首を傾ける。
肩から、長めの髪がさらさらと零れ落ちて、夕日を弾いた。
コナンは、その様子を見ながら、かすかな笑みを零す。
「困ったこと…ねぇ…」
改めて記憶を辿った。
「ほとんどが知識に関することかなぁ。小学校1年生が毒薬の成分とか知ってたら変でしょ?」
「うん、すっっっごく」
「そんなに力入れて頷かなくても……」
「えへへ」
「……あと、力がないこととか、運転技術とか」
言うと、蘭はひとつ思い当たった、という顔をした。
「ボート運転してたね」
「……あ〜…そういえば…」
「ハワイで親父に教わったって」
「い!? んなこと言ったっけ!?」
「うん」
「……」
「でもそれって、普通に高校生でも変だよ、コナンくん」
「……」
コナンはがくりと頭を落とす。
「あっあと」
もうひとつ思い出した、と蘭が手を打つ。
「…今度はなに?」
聞きたくない気がする…と、半目を蘭に向けると、とても嬉しそうに話す蘭と目が合った。
それだけで、コナンは頬が緩むのを自覚する。
本当に、我ながら、どうしようもない。
「学校から連絡きたことがあるよ。ヘリで小学校の校庭にコナンくんが、って」
「ええぇ!? ……あのとき、それで蘭ねぇちゃんが迎えに来たの?」
「そうよ。何ごとかと思ったんだから! お父さんはなんか投げやりな態度で、行ってこい行ってこいとかって適当なこと言うし」
「え……」
コナンは固まった。
しばし間をおいて、恐る恐る蘭を窺う。
「ねぇ、それっておじさん、僕のこと知ってた、とか、あると思う…?」
蘭は、驚いた顔をしたが、クスリと笑って首を傾げた。
「どうかなぁ。私にはわからないけど。…でも、お父さんだって探偵よ?」
「…まぁ、ね……」
結構うかつな探偵で、あまり役には立たないけどな、と心で呟きながら、コナンは曖昧に頷いた。
(けど、おっちゃん、身近な人が絡んだ事件には強かったよなー…)
気のせいか、背筋がぞっとした。
バレていても、別にいいのだけれど。
さっき、決めたのだ。せっかく蘭に気づかせてもらったのだから、ちゃんと…話してから消えようと。
だから確かにいいのだけれど……ちょっと、あまり具体的に考えたくない、というのが本音ではある。
重く長くため息を吐くコナンを、蘭は目を細めて見つめた。
コナンの頬をオレンジに染める光がまぶしい。
照らされるコナンを、愛おしく思う。
まるで、本当の弟のように。
西日の優しさに誘われるように、蘭は窓の外へと目を向け、柔らかな赤に染まった夕暮れの空を見つめた。



コナンは、急に無言になった蘭を不思議に思って、視線を上げる。
穏やかな顔で外を眺める蘭の横顔を見つめ、蘭越しの空、今日最後の、燃えるような刹那の光に染められて流れていく雲に視線を移した。
この部屋の、この場所から、こうして蘭と共に夕焼けを見つめることは、もうそうそうないだろう。
小五郎に出入り禁止にされなければ、機会は皆無ではないかもしれないが。
それでも、今このときは二度とない。
江戸川コナンとして、毛利蘭と。
名残惜しさは、切なさや愛おしさと混じりあって、コナンの心を絡め取る。
時間は、夕暮れの空を流れる雲と同じようにゆっくりと、けれども確実に過ぎていく。
やがて淡い夕闇に溶けていくオレンジの光のように、今ここに確かにある想いが溶けていってしまわないように……。
それは、きっと二人共通の願いだ。
同じ願いだと、今はとても自然に感じられた。
コナンは、再び室内を振り返った蘭から視線を外すことなく、静かに見つめ返す。
忘れない、この時間を。
優しい夕焼けの空も、蘭の横顔も。
誰も知らない世界に来てしまったかのように、二人を包んでいく夕闇も。
過ぎ去ってしまえば、きっと夢のように感じるだろう、コナンとして過ごしたときも。
何もかも全部、とても、とても大切なものだから。
心の奥にある互いにしか触れられない場所に、その存在を焼きつけようとするかのように、瞬きを忘れて見つめ合う。
そっと視線を外し、目を伏せたのはコナンだった。
数秒、目を閉じて、ゆっくりとまぶたを上げる。
再び合わされた蘭の、その優しい眸の奥を覗き込み、コナンはふわりと眼差しを緩めた。


「――ねぇ、…蘭ねぇちゃん」
「なぁに? コナンくん」


伝えておきたいこと。
残しておきたいもの。
それなら今、自分を満たすこの想いを忘れるわけにはいかない。



「――僕、蘭ねぇちゃんが大好きだよ」



それは、工藤新一に戻っても、心の中にずっと持ち続けるだろう。
けれども今、このときに言葉にしてもいいのは、――蘭に伝える権利を持っているのは、江戸川コナンだけだから。

いきなりの言葉に、蘭は目をまん丸にする。
だが、それも長い時間ではなく、やがて緩やかに表情を緩めて、泣き出しそうな笑顔で頷いた。



「ありがとう、コナンくん。私も…コナンくんが、大好きよ」



たくさん話そう。
大切なことを、互いの中にちゃんと残しておけるように。



日が暮れて、窓から差し込む街の明かりだけが光源になっても、今は相手の表情も、何を感じているのかも、手に取るようにわかる。
笑いながら、困りながら、そうして過ごす時間は、短すぎて…とても足りない。
お腹を空かせた小五郎が、事務所に届いた夕飯を持ってきたことで中断したけれど、結局、その後蘭の部屋に場所を移して、優しいひとときは、夜更けまで続いた。






〜fin〜









む〜…(−−;)
なんだかうまく説明が…orz
あ、背景は最後の最後の時間に合わせたのでした。
おかげで、ずっととっくに日が落ちているような雰囲気が…(苦笑)。
読んでくださった方、ありがとうございますm(_ _)m


2009.8.23 文月 優

(2009.8.29 加筆修正)
BACK  MENU