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<序章>





 夏休みも明け、残暑も幾分和らいだ、晩夏と初秋の境目。
 高校もすっかり日常を取り戻し、学び舎である校舎は、ゆっくりと夕暮れへ向かっていく日差しを浴びて、柔らかな黄色に彩られていた。
 放課後の校舎は、すべての音が遠い。
 校庭から聞こえてくる歓声に似た掛け声は、遮るもののない空間に広がって、空へと上っていく。
 対照的に、体育館から微かに聞こえてくる声は、弾むボールの音と共に独特の反響を持ち、篭っていた。
 校舎の3階からは、開け放った音楽室から零れていると思われる、トランペットやトロンボーンの音。
 木管楽器の音は、金管楽器の音に混じって、ほんの微かに・・・意識しないとわからないほどの音しか聞こえない。
 その校舎の2階を、青子はパタパタと走っていた。
 放課後に使われるような特別教室のない2階は、青子の走る足音が妙に響く。
 それが、聞こえてきているはずのあらゆる音をさらに遠いものと感じさせて、青子以外誰もいない廊下の静けさを強調していた。
 部活動をする生徒以外は、既に帰宅した時間である。
 青子はマイペースに走り、その勢いのまま、ガラリと教室の扉を開けた。


「おっそいぞー。」
 途端に、不機嫌そうな声に迎えられる。
 予想通りのそれに、青子はむぅっと眉を寄せた。
「なによぉ、快斗のバカ!快斗が手伝ってくれたらもっと早く終わったのに!」
 青子と快斗がまさに帰ろうと教室から一歩出たところで、待ち構えていたかのようにそこに現れた担任に、二人はプリントの整理を頼まれたのだ。だが、実際に請け負ったのは青子だけ。快斗はマジックでごまかして、さっさと逃げたのである。
 青子は、恨めしそうに快斗を睨みながら、快斗がお尻を枠に引っ掛けるようにして凭れている窓辺の方へと歩み寄った。
 逆光になっていて、快斗の表情が見えない。
 さらに、開け放たれた窓から入り込む風に煽られたカーテンが、青子に快斗の表情を見せまいとするかのように快斗の周りで翻り、青子の邪魔をしていた。
 青子は、快斗に近づきながら、目を凝らす。
 声の通り不機嫌な顔をしているようにも思えたし、反対に楽しそうに笑っているようにも思えた。
 最近、青子はこの幼馴染の表情が読めないのだ。
 予想したのとは全く違う表情を見せられて、唖然とすることもしばしばである。
 その変化を、青子はまだどう受け止めればいいのか、わからない。
 ただその変化を目にする度に、変わっていく快斗に対し、青子は寂しい気持ちを抱いた。
 ひとこと文句を言ったっきり、無言で、かつ難しい顔をして快斗に近づく青子に、快斗は不思議そうに小さく首を傾げる。
「どうかしたのか?」
 快斗がそう言ったときに、ようやく青子は快斗の前まで到達して、その表情を見ることに成功した。
(なんだ・・・。)
 ほっとして、青子は快斗に悟られないように、知らぬ間に肩に入っていた力を抜く。
 そこに居たのは、青子のよく知っている快斗だった。
 先程の不機嫌そうな口調など忘れたように、今は心配そうに、窓枠に軽く凭れたまま青子を見上げている。
 気持ちと共に、表情が緩み、青子の頬には柔らかな笑みが浮かんだ。
「どうもしないよ。」
 答えたのだが、快斗は窓枠から離れて、青子の前で上体を傾ける。
「ほんとかよ?」
 心配そうに覗き込まれた。
「ほんとだよ。」
 なんだかんだと意地悪を言っても、この幼馴染は心配性なのだ。瞳の奥が優しい。
 本当に心配されることのない今は、こうして心配させてしまったことを申し訳なく思ってしまうけれど、嬉しいことは事実だったりする。
 青子が笑うのを間近で見て、快斗はようやく納得したようだった。
「ふーん、ならいいけどよ。」
 身を起こし、そっけなく言い捨てる。
 心配した自分に照れているのだろう。
 こういう快斗ならわかるのに、と、青子はふと思う。
 最近本当に、わからない快斗が増えた。
 仕方ないことなのかもしれないとは思うものの、なかなか青子の心はついてきてくれない。
 だが、深く考えるのは怖くて、青子はいつもどおり、まぁいいかと思考を止めた。
「帰ろうか、快斗。」
 手伝ってはくれないくせに、こうして帰宅を待っていてくれる快斗は、天邪鬼だ。
 だけど、青子の大好きな快斗だった。
(でも!青子だけにプリント整理させたのは許さないんだからっ!)
 復讐は、恐らく今日の夕飯の食卓になるだろう。
 青子の言葉に、快斗は自分の学生鞄を取り、片手で肩に担ぐ。
 それは、いつもの快斗の通学スタイルだ。
 肩越しに青子を見やった快斗に促されて、青子も自分の鞄を手に持つと、歩き出した快斗を小走りに追いかけて、その隣に並んだ。
 先程と同様に人のいない廊下を、今度はふたりで歩く。
 無言のまま階段を下りて、昇降口を出たところで、快斗がまぶしそうに目を細めて、空を見上げた。
 快斗の片手が、降りかかる日差しから目を庇うようにして顔の上に翳される。
「まだ日差しは強いな〜。」
 のんびりと呟かれた言葉に、青子は、「うん、そうだね」と肯いた。
 夏の名残の日差し。
 けれども、その日差しに照らされる雲は、すでに形を変えていた。
 もくもくとした入道雲ではない、高く、薄く散った雲。
 色だけは、夏のままに真っ白だ。
 そして、風。夏の湿気はなくなり、涼やかに快斗と青子の間を吹き抜けていく。
 青子の一歩前で、快斗はしばらくの間、そうして空を見上げていた。
 視線は、どこまでも高く向けられている。
 何を見ているのか、わからない程に。
「・・・・・・快斗・・・?」
 随分と長く空を見つめていた快斗に、青子は呟くように声を掛けた。
 すぐに、視線が青子へと降りてくる。
 ふっと浮かべられた笑みは、やんちゃ坊主のあどけなさを残したままで、それでもどこか大人びていた。
「帰るか。」
「・・・うん。」
 踏み出す足は、同じ場所に向かうためのもの。
 けれども、前を向く視線は、きっと違うものを見ている。
 青子は微かな戸惑いを胸に、いつも通りに会話を始めた快斗の横顔を、ちらりと盗み見ていた。









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