だから雨の日は無能
-1-
「よし、これでいこう。いいな、ロイ。」
――それは、ヒューズのそんな一言から始まった。
「…は?」
突然それだけ言われても、何も理解できない。
ましてや、わかったそうしようなどと言えるわけもなく、ロイは短い一言だけを発して、たった今テントに入ってきたヒューズを振り向いた。
「なんだぁ? その気の抜けた返事はよ。」
「おまえがわけのわからないことを言うからだ。」
まぁ今に始まったことではないが、と呟きつつ、ロイは隣できょとんとして動かないリザを見て苦笑した。
「見ろ、ヒューズ。彼女は免疫がない分まともに面食らってるぞ。」
「…その会話を続けたら、オレは変なヤツってことで結論しそうだ。」
「おまえ、それ以外の結論を求めてたのか?」
それは無理というものだろう。
二人がそんなやりとりをしているうちに、リザは我に返ったらしい。
珍しくも慌てて立ち上がり、敬礼する。
士官学校ならばカツリと小気味良く響く踵の音も、この砂漠ではサクリと崩れる砂を踵の間に噛んで、鈍い音しか起こらなかった。
「お疲れ様です、ヒューズ中尉。外、また雨ですか?」
「ああ。お疲れさん、リザちゃん。」
ニカリと笑って、ヒューズはロイとリザが居たところまでやってくると、リザに座るように促す。
上官二人が居るところで、しかもロイの…つまりは少佐のテントの中で座るなど居心地が悪いと抵抗していたのも、やや遠い記憶になりつつあった。
この二人といるときに、この手の労力は使うだけ無駄だ。無駄ならば使わない方がいい。
今ではそう結論しているリザは、手早くヒューズのお茶だけを用意して、大人しく二人のいる、放り投げるように敷かれた敷物の上へと腰を下ろした。
砂漠の夜、それも雨の晩となると、昼間が嘘のように冷え込む。
外から戻ってきたばかりのヒューズは、しっとりと濡れた軍服の上から、ごしごしと二の腕を摩っていたが、すぐにほっと息を吐いて、リザが差し出したお茶を手に取った。
お茶とは名ばかりの薄くやや濁ったものではあるが、ここではたとえ駐屯地であっても簡単に飲めるものではない。
「おまえの錬金術って便利だよなぁ〜。」
ヒューズは、しみじみと呟いた。
「…私はおまえの便利屋になったつもりはないぞ。」
冷たく告げるロイも、ヒューズは気にしたふうもない。
外がどんなに寒くても、ロイのテントは温かかった。
時折思い出したようにロイが指を鳴らし、テントの中を、ふよふよと焔が蠢くためだ。
…戦場では貴重な水も、ロイが勝手に気体から錬成する。
そうして錬成された水は、あたかも配給であるかのように、ヒューズを介して同じ駐屯地に駐在する兵たちへと回された。
リザたちが飲む温かいお茶も、火を操るロイがいればこそ、今のように比較的簡単に用意できる。
ヒューズでなくても、便利だと感嘆したくなる気持ちはわかるだろう。
ただ、それだけでないのが問題なのだけれど。
――3人がお茶を口に運ぶタイミングが重なったらしく、沈黙が落ちる。
先ほどヒューズが入ってきたときには、ヒューズの軍服の色が変わっていることでしかわからなかった雨も、少し雨足を強めているらしい。
テントを叩く音が聞こえ始めている。
誰からともなく、銀色の金物でできた安っぽいカップを敷物の上に置く。
口を開いたのは、ロイだった。
「――で? なんだったんだ、ヒューズ。」
「あ?」
「さっきの、『これでいこう』というやつだ。」
と、ああ! とヒューズが手を叩いた。
「そうだそうだ、それ! 我ながら名案だと思ってよ。」
「だから何が名案なんだ。それを聞かなければ始まらんだろうが。」
睨むロイに、ヒューズは軽く肩を竦める。
ロイと同じく、なんだろうと思いながらヒューズを見つめるリザの前で、ヒューズはひとつ息を吐くと、静かにその表情を変えた。
「…焔の少佐の錬金術。雨の日は使えないことにすればいいかと思ったんだ。」
リザとロイにさえ、聞こえるか聞こえないかまで落とされた声色だった。
どこで誰が聞いているかわからない。
ヒューズの警戒を、当然リザたちは察する。
だが言葉を返すよりも先に、リザとロイは、思わず無言のまま目を見合わせた。
そんな二人を、ヒューズはややおもしろそうに見ている。
ロイがヒューズに視線を戻して、ぼそりと呟いた。
「……使えるんだが。」
「んなこたぁ知ってる。」
即答で返したヒューズに、ロイが眉を寄せる。
実際、ロイが得意とする錬金術は気体に関するもので、発火布に描かれている錬成陣も、気体を錬成する為のものだ。したがって、発火布が濡れても火花が起こせないだけで錬成は可能だし、他に火種さえあれば、雨だろうと焔を扱うことくらい、ロイには容易い。
「どうしてわざわざ無能のフリをしなければならないんだ?」
「無能…。」
ポツリと呟いたリザに、ロイが嫌そうな顔をする。
「だから無能じゃな…ぐぇ!」
片腕をロイの首に巻きつけ自分の方へと倒したヒューズが、態度だけはふざけながら、低い声で言った。
「声抑えろ、ロイ。本気で無能扱いするぞ。」
「…うるさい。」
途端に膨れっ面を見せ、ぶいんっとヒューズの腕を払いのけるロイに、ヒューズは、しょーがねーなと苦笑する。
そんな二人を静かに見ているリザに気がつき、二人は再び座り直すと、ロイがコホンと気まずそうに咳払いをした。
ヒューズは、ロイとリザを交互に見て、視線を落とす。
立てていた片膝を倒して、緩く足の裏を合わせた。
「…最近、おまえの出動命令が増えてきただろう?」
さらりと口にされたのは、ここのところずっと、リザも感じていたことだった。
出動命令の回数が増えただけではない。
共に行動する人数は、戦場で失われ、減っていく兵士の数を考慮しても、随分と少なくなってきていたし、一度の作戦で任される範囲は広がった。
当然、当事者であるロイには、誰よりも自覚があるだろう。
憮然としていたロイの表情が、すっと引き締まる。
「――何かあるのか。」
漣ひとつ立たないような口調で、しかし鋭く問い返したロイに、ヒューズは幾らか間を置いて答えた。
「…霞…程度だな。」
「ヒューズ中尉、それは…」
言いかけて、リザはヒューズと視線が合い、言葉を止める。
考えていることは、皆同じだ。
「……霞、でも、とうとう出てきたか。」
「さぁな。よくわからん。実際何も見えねぇ。感じる…って程度かな。肌にビシビシ。」
少しおどけたヒューズを、ロイが、ハッと軽く笑い飛ばした。
「おまえが、それだけのことで行動するもんか。大体、感じるってんなら、こっちは肌に針が刺さってくる程度に感じてる。今更じゃないか。」
嘲るように話すロイと、肩を竦めるヒューズの会話を聞きながら、リザは視線を落とした。
リザでさえ感じている。この先にあること。
国家錬金術師の力が、戦場において如何に有用か。それはロイが、日々証明している。
「だがヒューズ、そこまで警戒するほどか?」
ロイが尋ねる。
口調はさほど重くないのに、眼差しは射抜くようにきつい。
リザから見ると、こういうところが、この二人、とても似ている。
ヒューズはさらりと首を振った。
「さぁな。だからわかんねーって言ってるだろ。けどロイ、おまえがその錬金術師として力をフルに使ったら、一体どうなるよ?」
リザは、思わずロイに視線を向ける。
ロイは、無言で視線を険しくした。
「想像なんか簡単じゃねーか。もしオレが今の上層部みてーな腐った頭を持った司令官だったら、その力、これっぽっちも無駄になんかしないね。そうじゃねぇか?」
言われて、ロイはすっと視線を外した。
(……その通りだわ。)
リザは、奥歯を緩く震わせる。
全く、その通りだ。むしろ、今まで国家錬金術師を前面に押し出した作戦が取られなかったことのほうが不思議かもしれない。世間体が、気にされていたのだろうか。
(…でも、もうそんな余裕もないということなのね。……戦争に勝ったから、なんだというの。)
そう、考えても埒が明かないことを考えかけて、リザは思考をふるい落とす。
――そんなこと、ここにいるほとんどの人間がわかっているはずだ。
リザの隣で、ロイが小さく身じろいだ。
視線を向けたリザとヒューズの前で、ロイが深く溜息を落とす。
「おまえが無能なふりを勧めるほど…か。」
「…ああ。」
ヒューズの答えに、ロイは一度ヒューズを見やり、もう一度息を吐いた。
「…わかった。そうしよう。」
「少佐…」
あまりにもあっさりと頷いたロイに、リザが驚いて呟くと、ロイがリザを見て、僅かに微笑んだ。
「これで戦場でも休息確保だ。」
「……そうですね。」
ロイにつられるように、リザも微かに笑った。
笑わなければ、泣いてしまいそうだった。
だってロイは、いつもどこかで殺し合いが続いているこの戦場で、自分だけ休息を得て喜ぶ人ではない。
ロイの頭には、今どんなことがあるのだろうか。
例えば、ロイが戦場に立たなければ、イシュヴァールの人々を襲う被害が小さくなる。
例えば、ロイが居れば救えるかもしれない味方が、居なければ命を落とすかもしれない。
ヒューズはロイの心を少しでも救いたくて、ではロイは――…?
ヒューズの言葉に頷いたのはどうしてなのだろう。
ただ、深く追求する必要もなくロイはヒューズの考えを、自分に向けられた気持ちを汲んだのだ。
何事にも真面目なわけではないけれど、持つ力を隠すことをよしとするロイではない。敵を欺く作戦でもなければ、過小評価を嫌う。逃げることも嫌う。…ヒューズはもちろんそれを知っているはずで、今回の話は、その上でなされた提案なのだ。
彼らの間を深く行きかう思いや意志のうち、リザから見えるのはどこまでだろうか。
……いずれにしても、彼が口にしたのは、つらい冗談だと思った。
知らず視線が落ちていたリザは、クシャリと頭に重みを感じて、ハッと顔を上げた。
目の前にいたのは、ヒューズである。
リザと目が合うと、いつものニシャリとした笑顔でヒューズが微笑んだ。
ぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜられて、リザは慌てた。
「ヒューズ中尉!」
「おー。」
「ちょっ! やめてください!」
見抜かれたことくらいわかる。
わかるけれど、この扱いは恥ずかしい。
何よりも、リザはこんなところで感情を零した自分を恥じた。
つらいのも悲しいのも皆同じ。いや、ここにいる3人の中で、恐らくその感情が一番軽いのはリザのはずだ。
(なのに…)
…くしゃり、と、ヒューズの手が止まった。
絡まるほど長くないリザの髪は、それでもパサパサで、ヒューズが触れたままの形で留まる。
頭に乗せられたままのヒューズの手は温かかった。
離れていかないヒューズの手に、リザが戸惑いを感じる頃、ロイがひょいと手を伸ばして、ヒューズの手をリザの頭から下ろした。
「ったく、ヒューズ。おまえ、その誰でも子供扱いする癖やめろ。」
「あっらー、ロイさん珍しい! もしかしてやきもち?」
「ちがう!」
「やーん、それならそうとぉ」
「その話し方もやめろ、気色悪い!!」
絡むヒューズの腕を振りほどこうと、ぶんぶんと動くロイの腕を器用に避けて、ヒューズは首を傾げる。
「って、あれ? ロイ、おまえどっちに妬いてんの?」
「妬いてないと言ってるだろうが!」
そうロイが叫んだとき、テントの外に人の気配を感じて、3人は口を噤んだ。
すっとテントの中の空気が冷える。
「誰だ。」
ロイの問いかけに答えて名乗られたのは、リザも良く知る同じ隊の兵士だ。
「今行く。」
ロイは無造作に立ち上がり、嵌めている手袋を確かめるようにサラリと撫でて、テントの外へと出て行った。