さくら、さくら







 帝丹高校の校舎の裏には、一本だけ桜が植えられていた。
 なぜその一本だけ、日当たりの悪いその場所にあるのか、蘭はそのころ、まだ知らなかった。
 校門側で春の日差しをいっぱいに受けて開いた桜があらかた散ってしまう頃、ひっそりと、その桜が咲いた。
 寒さが長く続き、春の訪れが遅れた年だった。
 それは3年生になったばかりの、4月の終わり。
 しとしとと音もなく降る雨に濡れて、桜はそこに佇んでいた。
 その桜は、比較的最近建てられた図書館の新館と、くすんだガラスの張られた旧館とを繋ぐ、一本の渡り廊下からだけ見ることができた。
 桜が咲いている間、蘭はよく図書館へと足を運び、その渡り廊下に立ち止まった。
 人影のないその場所で、明るい日差しを受けられないその場所で、霧のような雨だけを受け取って、薄紅をしっとりと濡らし、ただ静かに咲いている、桜。
 その姿を見つめていると、不安にざわめいていた心の中が、凪いでいった。
 しんとしたその空間の中で、蘭は、まだ大丈夫だと思えた。
 まだ待てる。
 時は流れていくけれども、蘭の心は何も変わっていない。
 そして、新一の心もまた、変わっていないと信じている。
 だから、まだ。
 桜が散るまでには、帰ってきてくれないかと、そっと祈りながら。







 園子には、雨が多いよと言われた。
 それでもこの季節が良かった。
 いいんだよ、と答えたら、園子は心の底から呆れた顔をして、ため息を吐いた。

――あ〜、やだやだ! 顔緩みっぱなし! はいはい、雨でも桜の下がいいのねー。で、過去にそこでどんな思い出がありまして?

 拗ねた口調で、からかいを覗かせて蘭を見る園子に、「内緒」と笑みを向けたことは、記憶に新しい。
 園子のことだから、恐らく少し考えればその答えを思い出すだろうと思うのだけれど、あえて蘭は答えなかった。
 春の雨。
 桜の季節。
 それは蘭が自分の不安と必死に戦った季節だ。一本の桜に支えられて、毎日を過ごした。
 そして、蘭の願いがかなえられた季節でもある。
 ただいまと笑いかけられた、あのときの新一の表情は、いまでもハッキリと覚えている。
 びっくりして言葉が出なくて、何かいわなきゃと喉に力を込めた瞬間、ぶわっと緩んだ涙腺。
 崩壊する前に、温かな腕に抱きこまれた。
 耳元で聞こえた言葉は、その音も、呼気も、きっと一生忘れない。



「蘭? 入っていいかー?」
 物思いにふけっていた蘭は、部屋の外からかけられた能天気な声に我に返った。
「あ、うん。いいよー」
 慌てて答えると、ドレスの着付けを手伝ってくれていた女性が、ドアを開けてくれる。
「っと、ありがとうございます」
 ペコリと一礼して入ってきた新一が、鏡の前に座っている蘭と、鏡越しに視線を合わせて、ほんの少し目を瞠った。
「……へぇ」
 ぽそりと呟かれた言葉に、蘭は片眉を上げた。
「なによ、そのリアクション。もうちょっと何かあるでしょ?」
 言うと、新一がニヤリと笑う。
「何かって何だよ? 馬子にも衣装、とかか?」
「蹴るわよ」
 言うと、新一が一歩遠ざかった。
 じっと睨んでいると、根負けしたように苦笑される。
 ゆっくりと再び蘭に歩み寄って、照れくさそうに笑った。
「…きょうはやめとけって。せっかく綺麗にしたんだから」
「……」
 どうせなら言ってほしいなと思った言葉を聞けたのだけれども、恥ずかしいのは言ったほうだけではないらしい。
 かぁっと頬に熱がこもる。
 ふいっと視線を逸らせた蘭。
 同時に、新一もさりげなく視線をあさってに外していた。
 と、何かに気づいたように、新一が動きを止める。
「…どうかした?」
「ああ…桜、この部屋の前なんだな」
 着替えを終えていたので、窓が開けられていた。
 優しい風が、薄いベージュのカーテンを揺らしている。
「綺麗だよね」
「まーな」
 答えた新一が、ふっと口元から小さく息を零して笑った。
「おまえ、会場見る前に、外からこの桜見てここがいいって言ったよなぁ」
 普通あるか、そんなこと?
 と、からかいを含んだ声で言い、新一が窓際で振り返る。
 それに、蘭は軽く膨れた。
「いいじゃない、気に入ったんだから!」
「悪いとは言ってねーだろ」
 答えて、再び桜に戻される視線。
 聖堂の建築年数に比べて随分どっしりとしたその桜は、難しいとされる移植が成功したものだかららしい。
 じっと見つめれば、何年も前、あの渡り廊下の空気がよみがえる。
 大丈夫だと思った。
 どっしりと根を張るその桜を見て、涙を流さず、胸の奥にたまっていくそれを、静かに浄化する術を覚えたのだ。
 そのとき、ポツリと新一が呟いた。
「……あの桜、か」
 蘭は、驚いて新一の横顔を見上げる。
 と、新一は振り返って、小さく苦笑した。
「気づかれてないと思ったのかよ?」
 優しさと、自責の念と。
「これでも名探偵なんだぜ?」
 確かな自負が、同居する眼差し。
 蘭は、まっすぐなその目を見つめ返し、やがて、ふわりと目元を緩めた。
「私、そんなに見てたかな?」
「……見てただろ。もう花が咲いてねぇのに、立ち止まってさ」
「…そうだっけ」
 不思議と覚えていなかった。
 蘭の記憶にあるあの桜は、いつも薄紅をまとっていたから。
 おそらく、葉が茂っていても、蘭がその場所に見ていたのは春の記憶だったのだろう。
「…そっか。それで、桜しか見ないで決めたのに、ここでいいよって言ったのね」
 新一は、それには何も返さなかった。
 純白のスーツを身にまとって、けれどもいつもと変わらず、両手をポケットに突っ込んで、窓の外の桜を見つめている。
 蘭は、その新一の横顔を見つめて、胸の中にあふれてくる優しい気持ちに、そっと目を閉じた。
 あの桜よりもずっと、いつも新一の横顔を見ていた。
 推理をしているときも、事件後に何かを飲み込むときにも。
 いろいろなものを内包しながら、それでも変わらなかった真っ直ぐさ。
 澄み切ったまま、年を経るごとに深くなっていった眼差し。
 いつだってその姿を見つめて、支えられて、支えたいと願っていた。
 お互いに言葉を発しない中、ただ、風だけが部屋の空気を揺らす。
 いつのまにか、スタッフは退室しているようだった。
 蘭は、イスからゆっくりと立ち上がる。
 膝の上から零れていく、ドレスのたっぷりとした布地。
 さらさらと音を立てるそれに、新一が振り向いた。
 目が合い、どちらからともなく微笑む。
「……蘭」
 名前を呼び、外に向いていた体を、蘭のほうへと戻した新一。
 蘭は、ゆっくりと近づいて、触れられる距離に立ち止まった。
 それは、いつものキスの距離。
 全部わかっている新一が、ふっと笑みを零して、顔を傾ける。
 数刻後には、みんなの前で誓いのキスを交わすけれど、それとはまた違う意味を持ったキス。
 名目がない分だけ、決められた段取りがない分だけ、心のままに。
 離れた新一を見上げて、蘭は苦笑した。
「……口紅、拭かないとね」
 新一もわかっていたのだろう。
「締まらねぇなぁ〜」
 笑いながら、鏡台に置かれたティッシュペーパーへ手を伸ばした。
 締まらない、でも、それでいい。
 口元をぬぐった新一の手を少し強引に引っ張って、蘭は綺麗になった唇に、もう一度自分のそれを押し付けた。





 ――大好きだよ、新一!







〜fin〜



2012.7.16 文月 優
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