連続未遂事件迷宮入危機




 ――レストラン『アルセーヌ』。


 ここ半年ですっかり慣れてしまった店に、新一はひとつ溜息を零した。
「どうかなさいましたか、工藤様?」
 店の者にも顔を覚えられてしまったらしい。
 新一は慌てて表情を取り繕う。
「いえ、何も。こちらはメニューが豊富でどれもおいしいので、何度来ても飽きませんね。ハハ…」
 乾いた笑いになってしまったのは如何ともしがたかった。
 この店にやたら通っているのは、我ながらとても情けない裏事情があるためだ。
 メニューが豊富な店でよかったと思う。もしこれが、ワンシーズンに2、3コースしか用意していない店だったら、これだけ通う理由を誰にも説明できない。
 ――いや、もしかしたら、そのほうが後がなくて良かったのだろうか。
 考えて、新一は再び零れそうになる溜息をなんとか飲み込んだ。
「ありがとうございます。そうおっしゃっていただけるとシェフも作り甲斐があるでしょう。」
 にこやかに応対してくれる男性に、愛想笑いを返していると、化粧室から蘭が戻ってきた。
「ごめんね、新一。お待たせ。」
 ああ、化粧を直したんだな、と、新一は蘭を見て思う。日中、デパート界隈を歩き回ってきた後だからだろうか。それでも、食事前だから、ルージュはかなり抑えている。
 蘭もこういう店に慣れてきているのだなと思うと、新一は思わず苦笑が零れた。
 本当に、こうして二人で『アルセーヌ』へと訪れるのは、一体何度目になるのだろうか。その全てが同じ目的のためだなどと、蘭は全く思っていないだろう。知られたりしたら、気を失いそうなほど恥ずかしい。優作たちにも知られたくなくて、優作のカードを使うのを止めてからも久しいのだ。
 案内される席は、いつも同じ席。最初は指定していたのに、いつの間にか「いつものお席ですね」と言われるようになってしまっている。
 椅子を引かれて腰掛けた席にやってきたソムリエも、既に顔見知りだった。
 この店は、優作も気に入ってよく出入りしていた。今でも日本に戻ると立ち寄るようだ。親子で愛用していたら、それは扱いも変わってくるに決まっている。
 サービスは行き届いていて居心地はとてもいい。だが、新一がこの店を訪れる目的を考えると、できる限り席には近づいてきてほしくないと思ってしまったりもして。
「――新一様?」
 呼ばれて、ハッと顔を上げる。
「よろしければ、お食事の前に何かお飲みになりますか?」
「あ、…ええ。オレンジの…いや、やっぱりグラスシャンパンを。蘭は?」
 尋ねると、蘭は少しくすぐったそうに笑って答えた。
「私も同じでいいよ。」
「じゃあ、2つ。」
「かしこまりました。」
 ソムリエは、メニューを差し出して去っていく。
 蘭に視線を戻すと、蘭は新一を見てニコリと笑った。
「ありがと、新一。」
「んー、いや…。」
 そうだ。何度目だか数えるのも嫌になってくる来店ではあるが、今日は特別だった。
 今日は、蘭の誕生日。新一に続き、蘭も20歳になった。
 だからこその、シャンパン。
 ソムリエがすぐに持ってくる。薄いゴールドに気泡が上がるのを、新一も蘭も、なんとなく無言で見つめた。
 外はすっかり日が落ちて、眼下には夜景が広がる。窓に視線を移せば、シャンパンは夜に透き通って輝くようだった。
 ラベルを示し、ソムリエがいなくなる。
 新一は室内に視線を戻すと、蘭を見て、軽くグラスを持ち上げた。
「誕生日おめでとう、蘭。」
「うん。」
 同じようにグラスを持った蘭が微笑む。
「ありがとう、新一。」
 ずっと変わらない、優しい笑顔。こうして出掛けるときは、当たり前にするようになった化粧も、蘭を華やかにしながらも、穏やかな雰囲気を邪魔しないものだ。
 二人で手にするアルコールが、時の経過を知らしめていてくすぐったい。
 二人同時に飲んだシャンパンは、淡く木の香りがした。
「おいしいね。」
「ああ。オメー、アルコールは平気…だったよな?」
 公には飲めなくても、少しくらいは齧ったことがあって、蘭は悪戯が見つかった子供のように小さく舌を覗かせる。
「平気。お父さんもお母さんも飲めるしね。」
「そっか。…なら、ワイン飲むか?」
「うん!」
 嬉しそうに頷く蘭を見ているのは楽しい。
「ま、その前にコース選ばないといけねーけど。なんか食べたいもんあるか?」
「うーん…。」
 手元のメニューに視線を落とし、真剣に悩む蘭もかわいい。
 思わず見惚れていて、新一は今日の――もとい、いつもの目的を忘れそうになった。
 今日こそは、と思っていたのに。
 いけないいけない、と軽く首を振ると、蘭がきょとんとした顔を上げた。
「どうかした?」
「なっなんでもねーよ。」
 一体今日何度、何人からそう聞かれたか。
 新一は軽く自己嫌悪に見舞われる。
「新一、私この前菜が食べたいな。」
「どれ?」
「にんじんのムース? うにと、えーと、コンソメジュレ…」
「ああ、これか。んじゃ、魚とか肉に苦手なもんねーなら、そのコースにすっか。」
「うん、大丈夫! いいの?」
「ああ。」
 視線を向けた新一を見て、すぐに先程のソムリエがやってくる。
 こうした店に慣れてきたのは蘭だけではない。ソムリエとやり取りする新一の仕草は結構サマになっていて、蘭は少しドキドキしているのだけれども――当然、新一は気づかない。
「あと、ワインのメニューを頂けますか。」
 最後にそう続けた新一の横顔を見つめて、蘭はふわりと微笑んだ。


 それから、おいしい食事を食べて、ワインを飲んで。
 せっかくだから、と、チーズも頼む。
 最初に来たときは事件が起こったが、それ以来はそういったこともなく、今日も無事に済みそうだなと思ったのは、デザートが出てきた頃だった。
 ほっとして、新一はいつのまにか入っていた肩の力を抜く。
 いつもと同じペースで食事をしたつもりでも、今日はアルコールを取っているから、大分のんびりと過ごしている。
 おいしそうにデザートを口に運ぶ蘭は、少し酔っているようで、頬が赤かった。
「これ、おいしー。新一、食べてみる?」
「ん? ああ、いいよ。オレ、それ前回食べた。それより、オメーこっちも食べたことないだろ? 食べてみるか?」
 尋ねると、蘭が嬉しそうに頷く。
 だが、その眼差しは、どこかとろんとして見えて、ああ結構アルコール回ってんなーと、新一は苦笑した。
 本当は好ましくないのかもしれないけれど、目の前のデザートをひとさじ掬って、そのスプーンを蘭に渡してやる。
「落とすなよ。」
「ん…。」
 鈍くなってくる返事に、新一は呆れたように笑った。
「おいおい、寝るなよ、蘭。」
「寝ないよー。でも、ちょっと眠い…かも。」
「だろうな。水でも飲んどけよ。そろそろハーブティーくるだろうし。」
「うん…。」
 その頃。さすがに新一は今日も一番の目的としてきていたことが、頭にあったのだけれども。
「今言っても、忘れそうだよなぁ、蘭…。」
 思わずひとりごちる。
「なぁに、何か言った?」
 コトンと首を傾げる蘭に、本当に苦笑しか出ない。
「いや、別に。」
 見かけ上は、多分周囲にいる人たちと変わらない、程よい酔い加減にしか見えない。
 だが、蘭が、本当に酔いが回らないと顔に出てこないタイプだと知っている新一から見れば、陥落寸前だった。
「ったくよー、程ほどにしろよって言ったのに。」
 今度は、蘭にも聞こえるように言う。自分では呆れた声を出したつもりだったのに、それは思っていたよりずっと柔らかな声音になった。
「んー…だって、おいしかったんだもん。」
 クスリと笑みがこぼれた。
「まぁな…そりゃよかったけど。」
 でもなぁ、また次回――かよ…。
 心の中でだけ呟く本音だ。今日は言えると思っていたのに。
 次はいつ、このレストランに来られるだろうか。
 考えて、新一は軽くこめかみを押さえる。
 もういい加減、このレストランにこだわるのをやめるべきだろうか。こんなにもタイミングを逃し続けるのは…それは新一のせいももちろんあるだろうけれど、実はこのレストランとの相性があまり良くない、とか…。
 と、考えたとき、蘭がふわりと、それはもう幸せそうに微笑んだ。
「あのね、新一。」
「あ、ああ…?」
 あまりに綺麗な笑顔に、思わず動揺した新一は、どもりながら答える。
 と、蘭はその表情のまま、ふわふわと夢の中に漂うような口調で言った。
「このレストランね、特別なの。」
 ――と。
「…特別?」
 聞き返した新一に、蘭が頷く。
「うん。…新一がずっと居なくて、でも一度帰って来たときがあったでしょ?」
「ああ…」
「そのときに初めて連れてきてもらって。それから、新一が本当に帰って来たときにも、連れてきてもらったでしょ?」
 新一は、言葉に詰まり、僅かに視線を泳がせる。
「そこで、初めて新一に好きって言ってもらったの。」
「……。」
 唐突にそんな話を持ち出されて、新一は顔から火を噴きそうになったが、蘭はのんびりとした口調で続ける。
「それから、誕生日とか、大学に合格した日とか。特別なとき、いつもここに連れてきてもらってたから…。」
「…そう、だっけ…。」
 そうだった、かもしれない。だってここはおいしいし、近いし。景色も、サービスも良くて。新一にとっては、蘭と恋人になれた場所で。それに――…。
「――だからね、特別なの。」
 新一は、思考を止めて、蘭に視線を戻す。
 新一と視線を合わせて、もう一度、蘭は花がほころぶように柔らかく笑った。
「20歳の誕生日、ここで迎えられて、すごく嬉しい。――ありがとう、新一。」
 新一は、とっさに言葉が出なかった。
 そう言った蘭が、あまりに嬉しそうで。あんまり、幸せそうで。
 …とても、綺麗で――。
「……どう…いたしまして。」
 そう答えたのは、随分間があってのことだ。
 新一は、心の底から、惜しいな、と思った。
 いっそ蘭の記憶に残らなくても、言ってしまおうかとも思った。
 ずっとずっと、これから先も、特別な日は一緒にここに来よう、と。
 蘭が忘れてしまったなら、酔っていないときにまた改めて言えばいいか、と。
 ――けれども、やっぱり、たった一度に価値があるのかもしれないと思うから。
「…また、来ような。」
 それだけ言って、新一は微笑んだ。
 零れる蘭の笑顔が嬉しい。
 タイミングよく出されたハーブティーのカップを、蘭が少しだけ危なっかしい手つきで持ち上げるのを見ながら、新一はひとり、笑みをこぼした。
 幸せそうに蘭は笑う。
 心の奥の、このくすぐったさを幸せというのなら、それは新一だって同じだ。
 そして、もしそうだとするならば、新一の幸せは蘭の笑顔にあるんだろう。
 そんなこと、ずっと昔から知っていたけれど――。
 結局、と新一は思う。


 やっぱりプロポーズは、ここだよな……。


 今日はもう仕方ないから。
 ……次回こそは、必ず。

 新一は、7回目のチャレンジを胸に誓った。



〜fin〜







新蘭オンリーの企画本に寄稿したもの。
2010.3.16 文月 優

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