One day
リンリンと、最近では恐らくレトロに分類される音色で、工藤邸の電話が鳴った。
制服姿のままキッチンに立っていた蘭は、慌てて手を拭いて玄関にある電話まで足早に向かう。
この電話にかかってくる相手は、大抵新一の両親か警察関係者、そうでなければ新一の友人関係だ。
居ないときに鳴ったら出てくれると助かる、と軽く言われたのは、もうかなり前だったが、蘭が戸惑うことなく受話器を上げられるのようになったのは、ごくごく最近のことだった。
(誰かしら…)
新一は今、目暮からの連絡で事件に出ている。
ということは、これは警察関係者ではないということだろうか。
「はい、工藤です」
息を乱すこともなく応答する。
と、予想に反し、相手は高木刑事だった。
「あ、高木です。えーと、蘭さん…ですよね?」
相手に驚き、名前を言い当てられて蘭はもう一度目を丸くした。
「あ、はい。高木刑事? どうしたんですか?」
問いかけてから途端に不安が襲ってきた。
高木は新一と一緒にいるはずなのだ。
それが、本人不在とわかっている工藤邸に連絡してくる理由はひとつ。
「それが、その…工藤くん、怪我しちゃって…ごめん! あ、命に別状はないんだけどね!」
「……っ」
蘭は咄嗟に返事が出てこなかった。
同じような電話を、以前に一度受けたことがある。
そのときはここではなく毛利探偵事務所で、新一ではなく…コナンが撃たれたという連絡だった。
青ざめた蘭が見えるわけでもないだろうに、電話の向こうの高木は、ひどく焦っているようだった。
「えーと、工藤くん、今は警察病院にいて、意識はちゃんとしてるよ。それから、怪我は右の…」
高木は懸命に説明しようとしてくれたが、ハッと我に返った蘭は、その説明を遮って問いかけた。
「命に別状はないんですよね!? 手術したりは!?」
自分が酷く動揺しているのがわかる。一方で、頭の片隅から徐々に凍り付いて行くように冷たく冷静な思考が生まれて行く。
冷静といっても、表面上のことだ。
この場で説明を聞いても、とうてい理解できるとは思えなかったし、それよりなにより、早く病院に、新一のいる場所に行って、自分の目で無事を確かめたかった。
だから、最低限の質問だけ。
高木が受話器の向こうで激しく首を振ったのがわかった。
「し、してないしてないっ! あ、でも切り傷で結構縫ってはいて、」
「わかりました、すぐ行きますので、そしたら説明してください!」
「はっ? え、ちょ…!」
蘭は、受話器を押し付けるようにして本体に戻した。
受話器を握る自分の指先が震えているのがわかる。
(お、落ち着いて…! とにかく行かなきゃ!)
震えを止めようと、蘭は受話器から話した手をぎゅっと握り締めた。
気を抜けば歯の根が噛み合わなくなりそうな動揺を必死に押し殺し、ひとつ大きく呼吸する。
息を吐き出し終えるのと同時に、蘭は勢いよく踵(きびす)を返し、新一が収容された病院に向かうためにリビングに飛び込んだ。
手っ取り早くタクシーを捕まえる。
電車のほうが経済的なのはわかっているが、今はホームで電車を待つあの時間に耐えられそうになかった。
言葉少なに行き先を告げれば、運転手のおじさんは察するものがあったのだろう。
余計な話を振ることもなく、速やかに病院まで運んでくれた。
短く礼を言って、蘭はタクシーを降りる。
初めてではないから勝手はわかる。
迷うことがないのが嬉しいのか嬉しくないのかは微妙なところだ。考えるだけむなしい。
足早に病棟に入り受付で名前を告げようとする。
「蘭さん!」
背後から呼ばれた声に、蘭は勢いよく振り返った。
「佐藤刑事…!」
高木ではなく、佐藤だった。
咄嗟にその表情を窺い、蘭は肩の力が抜ける。
その様子を見て取り、佐藤はふわりと微笑んだ。
「工藤君は大丈夫よ。怪我は脇腹なの。内臓に損傷はないわ。後遺症が残るようなことも」
「…そ…う、ですか。……良かった……!」
蘭はぎゅっと自分の胸元を握り締める。
「来て、案内するから」
促されて、力が抜けそうになっていた足にもう一度気合を入れた。
「あの、事件でですよね…? 犯人は?」
「捕まったわ。工藤くんのお陰ね」
いつもの口調で言ってから、佐藤は立ち止まった。
つられるように蘭も止まる。
階段の踊り場だ。ここに病室があるわけではない。
不思議に思って数歩前にいる佐藤を見ると、佐藤はわずかながら苦い表情を覗かせて、蘭に頭を下げた。
「えっ、佐藤刑事!?」
ぎょっとして心持ち身を引いた蘭の前で、佐藤は数拍分、そのまま動かなかった。
「あの…」
戸惑って声をかけようとした蘭の前で、ようやく佐藤が顔を上げる。
その表情が真剣だったので、蘭は発しかけていた言葉を飲み込んだ。
「――ごめんなさい、蘭ちゃん。私達のせいだわ…。工藤くん、犯人から女の子をかばったのよ」
「え?」
「犯人が女の子を人質にしていたの。でも警察がいることに気づいて逆上してしまって…」
蘭は目を丸くしてその話を聞いていたが、佐藤と目が合って、表情を戻した。
もう一度謝ろうとしたのがわかって、蘭は先に口を開く。
「…近くにいた新一が助けたのはいいけど、ちょっと無茶をしちゃったっていうこと、ですか?」
口調は問いかけだが、内容は確認だ。
今度は佐藤が驚いたように蘭を見た。
「……一番近くにいたのが、工藤くんだったの。…彼、その可能性もあると思って、ずっと気を張っていたみたい」
「そうですか」
「本当は、私達こそがそうしなければいけなかったのに。犯人と工藤くんの間にだって、警察の誰かがいるべきだったわ」
唇をかむ佐藤に、蘭は微かに笑みを零した。
「でも佐藤刑事、きっと…同じですよ」
「え?」
蘭はクスリと笑って、佐藤を病室へと促す。
新一に早く会いたい。
無事を確かめたいというのはもちろんあるが、それ以上にただ会いたかった。
「だって、新一が無茶するときって止める間もないんです」
蘭の視線の先を見て、佐藤はようやく足の動きを再開する。
隣に、蘭が並んだ。
「いつもそうですから、きっと結果は同じだと思います」
誰がいたって、結局新一が動く。
だって、なんだかんだ言っても、一番新一がよく周りを見ているのだ。
そして、一番誰がどういう状況に置かれているのか、どういう状況が生まれるのかを、先読みして理解している。
「だから、っ……」
そこまで言って、蘭は慌てて止めた。
――だから、新一のほうこそ迷惑を掛けてごめんなさい。
うっかり口走るところだった台詞は、気まずい気持ちで飲み込む。
そんな台詞、蘭が言うのはおかしい、と思って。
蘭は、確かに新一に近いかもしれないが、家族ではない。
コナンならばともかく、新一だというのなら、この台詞を言っていい立場ではないはずだった。
「だから?」
振り向き、聞き返されて、蘭は勢いよく首を振った。
「な、なんでもないです! あっ、そ、そう、その、新一を叱るくらいで丁度いいんじゃないでしょうか!?」
勢いこんで言ってから、蘭は頬が熱いことに気づき、佐藤から視線を逸らした。
「…そう、かしら…?」
そんなことはないでしょ? と、佐藤が言うのにも、返す余裕はない。
困っていると、やがて佐藤がクスリと笑った。
「でも、目暮警部あたりは工藤くんを叱ってるかもしれないわね」
目暮は優作とも繋がりがある。
新一が事件に関わる以上、新一の安全を優作から任されていると考えているから。
きっと、謝罪と同じくらい叱っているに違いない。
それはなんとなく蘭にもわかって、蘭は佐藤に視線を戻し、二人でクスリと笑い合った。
「あ、新一の怪我って、えーと、何日くらい入院が必要なんですか?」
最初に佐藤に会ったときよりも、随分と落ちついた口調、表情で蘭が尋ねる。
と、佐藤は蘭の意図を汲み取り、いつも通りの口調に戻って答えた。
「入院は2日くらいかしら。基本的には自宅療養で大丈夫なんだけど、…でも工藤くん、一人暮らしよね? 入院していたほうが生活に不便がないようなら、そう手配するわ」
蘭は小さく首をかしげた。
どうだろうか。病院に缶詰にされるよりは、家にいるほうを好みそうだが。
「――ここよ」
言われて、蘭は我に返り、立ち止まった。
一歩下がった佐藤に目で促され、蘭は軽く握り締めたこぶしを一瞬見つめる。そして、その手で扉をノックした。
「はい」
すぐにわかる新一の声。
それがこわばっていないことに安堵して、喉の奥に押し込めていた空気をゆるく吐き出した。
扉を開ける。
佐藤の想像通り、目暮に叱られていたのだろう。新一は、ぱっと明るく顔をあげ、あからさまにシメタという顔をした。
「おお、蘭くんか!」
新一の向こう側で丸イスに腰掛けて扉を見つめていた目暮が、少し重そうな体でゆっくりと立ち上がる。
蘭が頭を下げると、目暮は慌てたように手を振りながら、蘭のほうへとやってきた。
「蘭くん、すまなかったね」
目暮にまで謝られて、蘭はぶんぶんと首を振りつつ、思わず苦笑してしまった。
蘭は新一の保護者ではないし、家族でもない。
大切な人ではあるけれど、こんなにも蘭が謝られてしまう状況は、どうもすわりが悪くてたまらない。
「あの、謝らないでください」
顔を上げてもらい、ほっと息を吐く。
そして、もう一度謝罪されるまえに、蘭は話を変えた。
「目暮警部、新一の怪我って…」
「ん? ああ、わき腹を数針縫っておる。刃物の傷だ。ただ、そこまでは深くないのでね、希望すれば自宅には戻れる」
「そうですか…」
頷いて、蘭が新一を見ると、新一は困ったように頭をかいた。
帰れるのならば、何か問題が?と首をかしげた蘭の隣では、目暮が新一を見て口元をゆがめる。
「警部……」
なだめるように呼んだ新一に、目暮はしばらく渋い顔をしていたが、諦めて、深くため息を吐いた。
「まぁ、とりあえず話しなさい。蘭くんも、我々はまだ下にいるから、聞きたいことがあれば後で聞いてくれればいい。それより工藤くんと話したいだろう」
病室の扉の前では、佐藤も蘭を見つめて頷いてみせる。
蘭は、心遣いに感謝し、はい、と答えた。
「じゃあ、まあ後でな」
言って、目暮は佐藤が開けてくれたドアから、大きな背中を揺らして出て行く。
「じゃあね、工藤くん、蘭ちゃん。後でね。工藤くん、正直に話すのよ? 隠しても後で私たちがばらしちゃうからね!」
ウインク付きで言い置いて、佐藤は足取りも軽く目暮の後に続く。
パタン…と軽い音を立ててドアが閉まると、しんと沈黙が落ちた。
いつの間にか日が暮れてきている。
蘭は部屋の明かりをつけ、奥へと足を進めた。
カーテンを閉めてから、新一を振り返る。
新一は、蘭の動きを無言のままに見つめていて、振り向いて目が合うと、気まずそうに視線を泳がせた後、ようやく「ごめん」と言った。
「…何にごめん?」
あえて感情を込めずに蘭が聞き返すと、新一は一瞬言葉に詰まる。
が、すぐ、
「心配、かけてごめん」
と続けた。
立っている蘭を見上げて、その反応を窺っている。
なんだかご主人様を見上げる犬のような目は、先程目暮と話していたときとは随分違うなと思う。
考えながら、蘭はコクリと頷いた。
「…ほかには?」
続けて尋ねると、新一がますます弱った顔になる。
「……ここまで来させて、ごめん」
「それはいいよ。…私のことはいいの」
「……」
蘭は、じーっと新一を見つめる。
新一はしばらく黙って考えていたようだが、やがて真顔で蘭を見つめて言った。
「…ほかに謝れなくて、ごめん」
まっすぐに見上げてくる新一を、蘭もただ静かに見つめ返す。
幾ばくかの沈黙の後、ふっと蘭が視線を緩め、かすかな笑みを零した。
「…そう言うと思った」
蘭の言葉に新一が目を丸くしたのは一瞬だけ。
すぐにそこにはやわらかい苦笑がこぼれた。
「ほかにないってことは、女の子は無事なのよね?」
「ああ」
「そっか。よかった」
「…ああ」
頷いた新一を、蘭は軽く睨んでみせた。
「新一も無事なら、もっと良かったのにね」
と、とたんに情けない顔になる新一。
「……それは、…ごめん」
蘭は噴きだすようにして笑った。
蘭が立っているのは、先程目暮が座っていたイスの後ろ。
そこに立ったまま新一に近づこうとしない蘭に、新一は首をかしげた。
「蘭、やっぱ怒ってんのか?」
笑顔で怒ることを知っているだけに、笑っているからといって安心はできない。
念のためと尋ねた新一に、蘭は一瞬きょとんとした顔を覗かせ、再び破顔した。
「…ちょこっとね。心配したんだから」
「……ごめん」
「新一、謝るけど、さっきから全然後悔していませんっていう顔してる」
指摘すると、うっと言葉に詰まる。
そして、
「だってよ」
と、何かを言おうとした。
蘭は、笑って首を振る。
「もう、いいよ」
蘭は少し考えて、言葉を付け足した。
「また同じことがあったら、同じようにするでしょ?」
だから、新一はこれ以上謝らない。
いつのまにか、それでいいのだと蘭は思えるようになった。
心に正直に進んでこそ新一らしいと思うから。
想像通り、まじめな顔をして頷いた新一に、蘭は微笑む。
「次は新一も怪我しないでよね」
一応、小言だけは言ってみる。
が、これもまた蘭の想像通り、新一はあいまいに困った顔をしただけで、明確には頷かなかった。
もう…、と、呆れたように零して、蘭はようやく動く。
「新一、怪我、どっち?」
置かれたイスを回り込んで近づきながら尋ねると、新一は布団の上から自分の左わき腹に軽く手を当ててみせた。
「ここ」
「そっか、それでこっちにイスが置いてあるのね」
「ん? ああ」
頷いた新一に、蘭は小さくいたずらな笑みを覗かせる。
そして、
「じゃあ遠慮なく」
と、勢いよくイスではなくてベッド脇に腰掛けた。
スプリングが弾んで新一が揺れる。
「うわっ、い、いてて!」
怪我とは反対側とはいえ、多少はダメージがあったようだ。
半身を起こして枕に背を凭れかけている新一を、蘭は上体をひねって器用に覗き込む。
「大丈夫?」
「……ああ」
新一は一応頷いたが、右手は布団を軽く握り締めているし、恨みがましい目と引きつった頬から察するに、それなりに痛かったらしい。
ちょっと乱暴だったかな、とは思ったが、高木や佐藤から聞いた説明を繋ぎ合わせて考えると、本当に軽傷のようなので、おしおきと思って我慢してもらうことにする。
それは置いておいて、蘭は顔を近づけ、新一の目を正面から見つめた。
迷いのない目。
疲れてもいない。まっすぐな力のある目。
だから大丈夫だと、蘭は怪我の心配とはまた別のところで安堵し、微笑んだ。
「蘭?」
戸惑っている新一の頬に手を伸ばす。
戸惑ってはいるが、動揺してはいない。
その落ち着きは、いったいいつの間に新一に備わったのだろう。
少しずつ、自然に。いろいろな場面の積み重ねで?
蘭は、先程自分で『全然後悔していませんっていう顔してる』と指摘したことを思い出す。
本当にその言葉のままの顔をしていた。
(……まぁ、いっか)
蘭はふっと至近距離で笑うと、目を丸くしている新一にさらに近づき、そっと唇にキスをした。
伏せていた目を上げると、新一は丸い目のままで硬直している。
初めてなわけではないのに、どうも不意打ちに弱いらしい新一に、蘭はこっそりと笑った。
後でしっかり事情聴取はするし、怪我だって次はしないように、もうちょっとでもいいから慎重になってほしい。
でも、それらを一旦棚上げにしても、助けられてよかったと満足そうにしている新一が、本当に好きだと思うから。
この人を好きでいてよかったと、心から思うから。
蘭は、固まったままの新一にもう一度キスをしてから、満足げに微笑んで、ベッドから離れた。
ちゃんとイスに腰掛けて、警察からの見舞い品らしい果物籠のりんごに手を伸ばす。
「ら、蘭!?」
ようやく解凍され、口元を抑えて声を上げた新一には、サイドテーブルから取り上げたナイフを片手に振り返ってにっこりと微笑む。
「なぁに?」
「……なんでもありません」
「そう?」
手にしたリンゴと同じくらい赤い新一の顔に、蘭は貧血にもなっていないようだと安心した。
わざとゆっくりとした手つきでナイフを操り、熟したリンゴをむき始める。
「ね、新一。嘘は吐かないでね?」
綺麗に微笑んで念を押すと、新一が頬を引きつらせて頷いた。
上体が蘭から逃げている気がするのは気のせいだろう。
蘭は、シャリシャリとやさしい音を立てながら、ナイフを滑らせていく。
そして、先程の綺麗な笑顔のまま、怪我の状態や今後の過ごし方などの質問を始めた。
窓の外では、空が最後の西日の余韻を残し、薄闇に染まる。
やがてすっかり暗くなったころに蘭が目暮たちに挨拶をしようと病室を出ていくと、後には搬入直後よりもぐったりした新一が残された。
〜fin〜
新蘭オンリー『Love All』(2011.11.1開催)発行の
アンソロ本に寄稿したもの。
2012.1.28 文月優
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