夏の木陰






 ――夏の終わり。
 最後の盛りといわんばかりにセミが合唱しているが、雨が降れば気温はぐんと下がる。
 入道雲は変わらないのに、空の青さが薄くなり、木々の緑が深く落ち着き始めていた。
「らーん!」
 遠くから聞こえた声に、蘭は空に向けていた視線を戻した。
 大きな木の陰。ふらりとやってきて、そこに凭れてぼーっとしていたのだった。
「らーんー!」
 軽やかな…というよりは慌しい足音とともに聞こえてくる声には、焦りの色が滲んでいる。
 それを認識して、蘭は我に返った。
 慌てて幹から身を起こし、木陰から道へと降りていく。
 舗装されていない、トラックなどが通って踏みなさられたことでできた道。
 足元で、ジャリ、と軽い石音が鳴ると同時に、新一が蘭を見つけた。
「蘭!」
 ほっとした表情を見せて、駆け寄ってくる。
 その瞳には非難の色など微塵もなく、代わりにひどく心配そうな眼差しが蘭の表情を覗き込んできた。
 日陰から出れば、日差しはまだ夏の色だ。光の加減で、表情の詳細が飛ぶ。
 見えなかったのだろう表情を確認して、新一は改めて短く息を吐いた。
「…ごめん」
 謝った蘭に、新一が苦笑する。
「バーロー、なんか言ってけよ」
 返された言葉は、ただそれだけ。
 だが、言ったならひとりにはしてくれなかっただろうな、と蘭は思う。
 ひとりになりたかったかというと、そういうわけでもないのだが。ただ、泊まっている宿にいるのがつらかっただけだ。
 二人で遊びに来た田舎町で、連続殺人事件に巻き込まれている最中(さなか)だった。
 蘭たちの部屋を担当してくれていた宿屋の少女が、昨夜殺害された。
 小柄で気丈な、まだ中学生のあどけない少女だった。
 働いているわけではない。女将の娘で、この宿を継ぐのだと、年齢不相応なほどに静かな目をして言っていた。
 思い出して、蘭は視線を落とす。
 新一の靴には、この道とは違う泥がついていて、蘭はもっと近くにいるべきだったと後悔した。
 今回の事件で初めて顔を合わせた刑事に気を遣わせることを避け、新一自らが姿の見えない蘭を探しにきてくれたのだろう。
 申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、蘭はもう一度「ごめんね」と謝った。
 ふっと新一が苦笑する。
「怒ってるわけじゃねーよ。でも心配すんだろ」
「…うん」
 宿に戻りたくはなかった。
 でも、このままふらふら歩いていたいなんて、事件を追っている新一に言えるはずがない。
 だから戻ろうと宿屋のほうへ足を向けた蘭だったが、新一がその二の腕を掴んで止めた。
「新一?」
 戻らないの?
 尋ねる視線に、新一はやはり苦笑する。
「ちょっと付き合ってくれ」
「え…」
「村役場、行くんだよ。だから」
 簡潔なことば。
 いつ、誰が巻き込まれるか現時点では絞り込めていないのかもしれない。
 また、たまたま事件に関わる何かを目撃してしまって、第三者が危険にさらされる可能性もある。
 新一は、ふいっとそっぽを向いてしまっていたが、ひとりにしておきたくないんだろうなと理解して、蘭は頷いた。
 基本的に、やさしい人なのだ。わかりにくいだけで。
「…じゃあ、一緒に行く」
 蘭が言うと、新一は視線を戻すこともなく、コクリと頷いた。
 そのまま歩き出す背中は、少し汗をかいているが涼しげに見えた。
 その一歩後ろを、蘭はついて歩く。
「どこいたんだ?」
 尋ねられて、ちょうど見えた一本の木を蘭は指し示した。
「あそこの影よ。涼しかったから」
「…ああ。あれだけずいぶん大きな木だな」
 新一の言うとおり、道の脇にはたくさんの木が立っていたが、その木の幹だけ1.5倍くらいの太さがあった。
「そうだね…。でも特別何かが書いてあるわけでもなかったよ」
「ふーん」
 チラリと新一の視線が、一瞬蘭を窺ったのがわかった。
 どうしたのかと目を上げると、ほんの少しさまよった視線が、もう一度蘭を見る。
 瞬いた蘭の前で口元を引き締めた新一が、無言で手を差し出した。
「え……」
 目を丸くした蘭から視線を逸らし、新一は1、2秒ほど待つ姿勢を見せた。
 が、驚きのあまり止まっている蘭に何を感じたのか、わりとすぐ、その手はすとんと下げられてしまった。
「…新一?」
 尋ねても、返事は返らない。
 それどころか、蘭に背を向けた新一が、ふたたび歩みを再開したので、蘭は慌てて追いかけた。
「なぁに?」
「…いや、なんでも」
 隣まで追いついて新一の表情を見ると、逃げるように視線をそらされる。
 その耳元が赤くて、蘭は「あ」と思わず声を上げた。
 下げた視線の先に、きゅ、と握り締められた手がある。
 差し出してくれた手。
「……新一」
 思わず読んだ名前には、隠しようもない嬉しさが滲んでいて、蘭は照れて頬をこすった。
 けれど、目の前の新一は、蘭以上に照れているのがわかる。
「……ありがと」
 言っても、新一は何も言わない。
 その手を、蘭は自ら手を伸ばして捕まえた。
 手を繋ごうと動かせば、されるがままになってくれる。
 うまく収まったところで、軽くきゅっと力を込められたのを感じて、蘭は、ふふっとくすぐったそうな笑みを零した。
「……ありがと」
 もう一度言うと、「暑っちぃ」という文句が帰ってくる。
 蘭はこらえきれず、クスクスと笑った。
「夏だもん」
 あたりまえのことを歌うように返して、新一の隣を歩く。
 先程はよどんだ重さに支配されていた心が、少しだけ軽くなっていた。
 悲しいけれど、悔しいけれど、ひとりで沈んでいても迷惑をかけてしまうだけ。
 わかっていても、重い気持ちを振り切れなかった。
 けれども、繋いだ手から流れ込んでくる温かさが、蘭の中によどんでいた空気を少しずつ浄化していく。
 大切なぬくもりは、夏の暑さとは違う穏やかさで、ゆっくりと浸透する。
 増えてきた木陰を渡りながら、しばらく無言で歩いた。
 セミの声が大きくなる。
 そろそろ村役場が見えてくるというころ、あさってを向いていた新一の眼差しが、心配そうに蘭に向けられた。
 蘭は、しっかりと目を合わせて言った。
「…捕まえたいね、犯人」
 ちゃんと、償ってほしい。
 命の重さに、気づいてほしい。
「……必ず、見つけるさ」
 その言葉は、確かな自信に裏打ちされている。
 落ち着いた表情に、驕りなどはない。
「…うん」
 蘭は頷いて、数メートル先に迫った役場を確認し、新一の手を離した。
 新一が歩幅を大きくし、先に役場の前にたどり着く。
 と、「あ…」という声とともに、ピタリとその動きを止めた。
「どうしたの?」
 すぐに追いついた蘭が、新一の視線の先をたどる。
 古い木造の建物の、正面。
 ガラスの引き戸の向こうに、明かりはない。
 人影も、ない。
 一応ドアに手を掛けてみる。が、動かない。
「………今日って……」
 ぽつんと呟いた蘭の声に、新一が視線を逸らした。
 じーっとその横顔を見ていると、やがて観念したように新一が肩を落とし、ため息を吐く。
「……日曜日、だよな…」
 視線を逸らさない蘭の隣で、新一は、あっちを向いたり、そっちを向いたりしていたが、どうにもいたたまれなくなったのか、ついに背を向けて歩き出した。
 蘭は、追うでもなく、その背中を見つめる。
 数メートル先まで進んだ背中は、後ろに足音がついてこないことに気づいていたのだろう、仕方なしに歩みを止めた。
 肩越しに振り返る、その表情は日差しが強くてわからない。
「…村長さんとこ、行くぞ」
 短く告げて、また歩きだす。
 蘭は、思わず息を漏らして笑った。
 背中がこわばったように見えて、慌てて駆け出し、新一の後ろに並ぶ。
(……もしかして、村役場に用事って……)
 本当は、なかったのかもしれないな、と。
 気づいてしまって、蘭は緩む頬をうつむいて隠した。
 何かを尋ねられることを拒んでいる背中が、とても好きだと思う。
 その気持ちに正直に、蘭は少し加速して、ぎゅっと新一の腕に抱きついた。
(村長さんに、何を聞くの?)
 きっと、何かは尋ねるのだろう。
 緊急ではない何か。念のため、というくらいの重要度の。
(――ありがと……)
 少しずつ傾く日差しが、木々の陰を伸ばしていく。
 遠く見える山並みは、日差しを反射して明るく、肌を撫でていく風は優しい。
 村長の家までは、ほんの数分。
(…もう、大丈夫)
 心の中で呟いて、新一の腕を開放する。
 ちらりと心配そうに向けられた眼差しに、蘭はおだやかな目を向けた。
 心なしか細められた目は優しい。
 ふたりはそのまま何事もなかったように前を向いた。
 その心の強さに、いつも、…きょうも、惹かれている――。




〜fin〜







2011年10月8日開催の新蘭オンリーイベント『LOVE ALL』の
企画用に寄稿させていただきました。

2011.11.6 文月 優
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