夏が来る
「浴衣?」
首を傾げたコナンに、蘭が上機嫌に頷いた。
薄い桃色のタオルで手を拭きながらキッチンの方からやってきた蘭は、居間でゲームをしていたコナンを見下ろした。
特に執着しているわけでもないゲームだ。手を止めて振り向いたコナンは、思ったよりも蘭の視線が高くて、一瞬息を詰める。
コナンとしてこの家に居候を始めてから、既に1ヶ月以上経っているのに。
蘭を振り向き、蘭と目が合うまでの刹那、過ぎった思考に囚われかけて、コナンは慌てて瞬いた。
改めて蘭を見あげて、もう一度尋ねる。
「…蘭ねーちゃん、浴衣って?」
子供特有の高い声にも、大分慣れた。
こんなふうに外から自分を観察する、一面自虐的ともいえる行為は、すっかり癖になりつつある。
時間の流れは、丁度今の季節の空気のように、呼吸器を塞ぐような重苦しい湿度でもって、コナンに纏わりついていた。
だが、目の前の蘭に、そんな空気は無縁らしい。
同じ重力を受け、同じ空気の中に存在しているとは思えないほど、蘭は軽やかだった。
「ちょっと待っててね。」
そう言って、自室に消えたときも、また現れ、コナンの隣までやってきて、愛用の座布団の上に座ったときも。
その手に、濃紺の浴衣がある。
いつのまにかゲームのコントローラーを手放し、意識の外に放り出しているコナンに、蘭が小さく苦笑した。その間も、コナンの視線は浴衣に固定されている。
照れくさそうに、蘭が言った。
「一度作ってみたかったの。」
コナンは、蘭の手にある浴衣を見て、それから蘭を見る。
もう一度浴衣を見て、ようやく蘭の手作りであることを認識した。
コナンは、咄嗟に言葉が出なかったせいで、気づいて何か言おうとしても、どうすればいいかわからなからなくなってしまった。
嬉しいとか、綺麗な生地だとか、さすが上手だとか、それから、これをいつ着るんだろう、とか…そのとき考えたことは結構たくさんあったはずなのに、そのどれもが表には出なかった。
蘭が、浴衣を差し出したので、コナンはそれを受け取る。
空いた手で、蘭はテーブルの上に置きっぱなしになっていた、氷がほとんど解けてしまったオレンジジュースを手に取った。
グラスを掴む指先を水滴が伝い、またグラスを伝ってテーブルに落ちる。
ストローを摘んで一口それを飲んでから、蘭は布巾で丁寧にグラスとテーブルを拭い、持っていたそれを元の場所に戻した。
その光景を、コナンは黙って見つめていた。
手にある浴衣は、とても軽い。それなのに、とても重かった。
コナンへと再び視線を向けた蘭が、不安そうにその眸を翳らせた。
「…コナンくん、もしかして浴衣、嫌いだった?」
「え…?」
何を問われたのか一瞬わからなかったほど、それは予期しない言葉だった。
だが、慌てて取り戻した思考で、自分の態度を振り返ってみれば、そう思われても不思議でないくらいに長い沈黙を続けていた。
コナンは慌てて首を振った。
「ち、違うよ。ぼく、手縫いの浴衣なんてもらったことなかったから、びっくりして…」
小さな浴衣。―――多分、愛情いっぱいの。
コナンの両手に、ふわりと羽のように載っている。
コナンは、そこに視線を落とすと、コクリと一つ、喉を鳴らす。
「…ありがとう、蘭ねーちゃん。」
見上げて微笑むと、蘭は、肩の力を抜いて、嬉しそうに微笑んだ。
ほっと、コナンは気づかれないように息を吐く。
それから、浴衣を手に立ち上がった。
「ねぇ、着てみてもいいの?」
尋ねると、蘭の表情がほころぶ。
そうしたいのかな、と思って言った言葉が当たっていて、コナンからは、今度は勝手に笑みが零れた。
「手伝ってあげる。」
言って、蘭も立ち上がるのを、コナンは留める。
「大丈夫だよ!着た事はあるから、自分で着られるよ!」
だが、蘭は既に立って、コナンの浴衣に手を伸ばしていた。
「いいから。一人より楽でしょ?ね、早く。」
楽しそうに急かされる。
抵抗するのも不自然に思えて、仕方なく、コナンは手にしていた浴衣を、蘭へと差し出した。
着替えを手伝われることには、まだ慣れない。
今は小学校一年生、一年生、一年生!と、コナンは自己暗示をかけながら、蘭が浴衣の前を合わせてくれるのを待った。
帯を留めるために回される腕に、どうしても身体が緊張する。
息を詰めて待つことしばし、ようやく蘭の手がコナンから離れた。
「よし!コナンくん、鏡鏡!」
「あ、うん。」
等身大の鏡がある玄関の方へと向かおうとして、コナンは一瞬、浴衣の裾に足を取られた。
「っと…」
足音が乱れた程度で、転ぶこともなく態勢を立て直す。
思わず吐いた息が、蘭のそれと重なって、コナンは蘭を見上げると、照れたように笑った。
「大丈夫?」
クスリと笑みを含んだ蘭に尋ねられて、コナンは頷く。
「うん、平気。」
次の一歩は少しだけ丁寧に。
蘭の後に続いて玄関に向かおうとしたコナンの前に、すっと手が差し出された。
顔を上げると、楽しそうな蘭が、コナンを見ている。
弟ができたみたいで嬉しいと、そう言っていた表情そのままに。
コナンは思わず苦笑した。苦笑くらいしか、出てこない。
手を伸ばすと、ひんやりとした蘭の手が、すっぽりとコナンの手を包んだ。
浮かべたコナンの苦笑が、苦味を残して消える。
その顔を見られたくなくて、裾を気にする振りをして、視線を落とした。
「大丈夫?」
明るい声に、落ちかける思考を救われる。
繋いだ手が、コナンをそこに留めていた。
頷いて、導かれた鏡の前に立つ。
鏡の中の自分を見て、不自然じゃないように微笑めば、隣に立つ蘭も嬉しそうに笑う。
そんなことがとても嬉しいのは、前と同じなのに。
―――繋がれた手。
今は互いの体温が溶け合い、ただ人のぬくもりがあるだけのそこに、コナンは先ほど触れたばかりのときに感じた、ひんやりとした皮膚を思い出していた。
その手が、するりと解かれる。
「うん、似合ってる。良かったぁ〜。」
手を叩く蘭に、コナンも視線をあげて笑った。
「コナンくんなら絶対紺だと思ったんだ。どう?」
頷いて、袖口を持ち、両手を広げてみせる。
…冷たかった手は、どうしてだろう。
「こういう色、好きなんだ。ありがとう、蘭ねーちゃん!」
「後ろは?大きくない?」
「大丈夫だと思うけど?」
背中を鏡に映すと、心配そうに、蘭が浴衣をところどころ摘む。
そうして寸法を確かめて、蘭は、よし、と頷いた。
「ね、さっそくだけど、来週夏祭りなんだよ。コナンくん、一緒に行かない?」
…氷の入ったグラスを触ってた。
「うん、行く!どこのお祭り?」
居間に来るまでは台所に居たから、水を使ってたせいかもしれない。
「駅の向こうにある神社のお祭りだよ。来月にある街の夏祭りよりは小規模だけど、とっても綺麗なんだよ。」
微笑む蘭の脳裏に描かれているのは、過去のどんな夏祭りだろうか。
ほんの少し、切なげに瞬いた眸に、コナンの頬は強張りかける。
思い出と現実の違い、それは、たった一人の存在だと…そう思う自分は、うぬぼれているのかもしれない。だけど―――…。
去年、はぐれないようにと繋いだ蘭の手は、柔らかくて、少し華奢で、そして温かかった。
確かめるように、コナンは手を伸ばす。
「蘭ねーちゃん?」
呼びながら、コナンの視線の先にある指先を掴まえて引っ張る。
その手は、やっぱり記憶の中のそれよりも冷たい。
視線をコナンへと戻した蘭が、ふわりと微笑む。
「ね、行こうね、コナンくん。」
「うん!楽しみだね。」
できるだけ、無邪気に笑ってみせる。…子供のように。
蘭に触れていない方の手を、浴衣の袖に隠して、そっと握った。
そこに感じる体温は、感覚が覚えているものよりも、はるかに高い。
……子供、だから。
「綿菓子食べようね。」
「えー、ぼく綿菓子よりたこ焼きがいい!」
「そうなの?」
「うん!あ、ねぇ射的あるかな?」
「射的?コナンくん、好きなの?」
「ぼく上手なんだよ!」
「へー。じゃあお店あるか、探さなくちゃね!」
本当は温かい蘭の手を、もう一度この手に掴めるまで、どれだけの時間が流れるのだろうか。
手がかりもなくて、全てがこれからで。
新一が帰るまで、どのくらいかかるのだろう。
それまで、この小さな子供の手は、少しくらい…蘭の手を温めることができるのだろうか。
―――初夏。
このとき触れた手の冷たさを、コナンは一生忘れられないと思った。
〜fin〜
久しぶりの書き下ろしかも!(…υ)
2004.4.25 蒼月 夕