刻
「・・・雨だ。」
ふと、快斗が顔を上げた。
「え?」
その視線が、確かめるように窓の外へと向けられるのを見て、青子は快斗の言った言葉を理解する。
「あ、ほんと。降ってるね。」
窓が濡れ始めている。
灰色にけぶる、薄暗い外。
校庭の木々が、人影のなくなったそこでひっそりと佇む。
「よくわかったね、快斗。雨降ってるって。」
「ん?なんとなくだけどよ。湿気が・・・ってか、空気が冷えた気がしたんだよ。」
言いながら、立ち上がる。
開け放していた窓を閉めた。
「帰ろうか?」
青子に言われて、そだな、とカバンを掴む。
青子も、集計していた進路調査のプリントを整理して、トントンと揃えると立ち上がった。
「ほい。」
快斗はそれを受け取って、ぱらぱらと捲る。
「はぁ〜。嫌だね、受験生。」
「ほーんと!でも快斗、勉強しなそうだよね。」
快斗が、自主的に勉強しているところなど見たことがない。
青子が告げると、快斗は軽く笑って青子を促した。
「そうかぁ?試験になると一緒に勉強しよーって家に押しかけてくるじゃん、オメー。」
青子は、ついて歩き出しながら、なんとなく快斗の動きを目で追いかける。
動きはたぶんいつもと同じなのに、湿気があるせいか、ふわふわしている髪がいつものように軽やかには弾まなくて。妙に、静かな印象を受ける。
「そのときくらいしか見てないよ?あと朝学校来てから宿題してるとことかー。」
廊下に出ると、すでに電気は落とされていて、下校時間が過ぎていることを改めて感じた。
非常灯だけが照らす廊下は、気味が悪いというよりも、物寂しい。
並んで歩いている隣の存在に、青子は心持ち寄り添った。
気づいたらしい快斗が、くすりと笑みを零す。
「怖いわけ?」
言われたけれど、青子は無視してぷいっとそっぽを向く。
「受験ねー。」
快斗は気にしたそぶりもなく、会話を戻した。
「・・・なぁ青子、また家で勉強しろよ。」
「えっ?」
びっくりして顔を上げる。
青子の視線を避けるように、少し前を歩いていた快斗が、無造作に教員室のドアを開けた。
数学科。中に入ると担任が顔を上げる。
「あ、ご苦労様〜。助かったわ。」
「せーんせー、コレ生徒にやらせる仕事じゃないでしょ〜?」
笑って話す快斗に、青子はなんとなくタイミングを逃す。
といっても、何を聞こうとしたのかもよくわからないのだけれど。
入り口で立ち尽くしていると、振り向いた快斗に、腕を引かれた。
青子を教員室に引き込んで、快斗がドアを閉める。
「あら、わかっちゃった?」
廊下から流れ込んでいた冷気が、ぴたりとやんだ。
「考えなくてもわかるってば。」
呆れた顔で笑う快斗に、青子はそういえば、と担任の手元にあるプリントの束を見つめた。
先ほどまで快斗とふたりで格闘していたそれは、それぞれの志望校なんかがしっかりと書かれている。
担任は、その束を目の前に並んだファイルたちの上に軽く載せると、立ち上がって部屋の奥へと向かった。
本棚を衝立代わりにして入り口側の空間とは区切っているそこから、声と、食器を扱う音が聞こえる。
「まぁまぁ、いいじゃない。あなたたちなら安心だし。ハイ、お礼の珈琲。」
「わぉ、サンキュー、先生!教室寒かったんだ♪」
青子、と快斗が振り向く。
ぼけっとしていた青子は、ようやく我に返った。
質問などを受けるためなのか、教科会議のためなのか、部屋にある大きなテーブルの上に、カップがふたつ、湯気を立てて並べられている。
誘われて、並んで座る。
「いただきます!」
飲み込んだ琥珀の液体は、知らないうちに冷えていた身体を芯から温めようとしてくれる。
ほっと、自然と息が漏れた。
「黒羽くんと中森さんは、大学は一緒?」
ぱらぱらと再び資料を捲りながら、担任が尋ねる。
青子は、はい、と嬉しそうに笑って答えた。
「あ、ほんと。学部も一緒なのね。」
仲いいのね、と笑う担任に、快斗は軽く肩を竦めた。
偶然なのだと言っても信じてくれなそうだ。
快斗は、青子はてっきり文系に進むものだと思っていたのだけれど。
志望調査票に書かれていたのは、工学部だった。
「青子ね、快斗がマジシャンになるの、傍で手伝いたいの。」
さっき教室でそう言って笑った青子に、どう反応を返すか、本気で困ってしまった。
うれしいと思う反面、青子を裏方に入れるのは抵抗があったから。
青子は、快斗の誰よりも大切なゲストなのだ。
それなのに、裏方を手伝われるのはどうだろう・・・?と、思ってしまう。
「ああ、そっか。だから工学部?中森さんなら、頑張れそうね。」
一緒に大学生になれるといいわね、と言われて、青子は元気に頷いた。
カタン、と、小さく音を立てて、快斗がカップをテーブルに置く。
もうほとんど・・・教師さえあまり残っていないだろう校舎の中で、その音はやけに響くような気がした。
「じゃ、そろそろ帰ります。また明日♪」
立ち上がると、もう?と首をかしげながら、青子も「ごちそうさまでした」と言って腰を上げる。
傘持っていないの?と尋ねてきた担任から、置き傘を一本借りて。
ふたりが校舎を出たときには、すっかり日が落ちていた。
春先の雨は、酷く冷える。
しかも霧雨。
細かく空気に溶けたそれは、傘を差していても、しっとりと服をぬらした。
「ねぇ、快斗。」
わりと大きめの傘に、ふたりで入りながら青子が快斗を見上げる。
「んー?」
「・・・青子が手伝うの、嫌?」
「・・・・・・。」
戸惑ったのを気づかれていたのか、と内心で顔を顰める。
寂しそうな青子に、そうじゃねーけど、と答えて、快斗は言葉を切った。
青子も、マジックが好きなのだ。
マジックで広がる、笑顔が好きなのだ。
わかっているのだけれど。
・・・タネなど知らないままに、自分の見せるマジックに笑っていてほしいと、それは快斗の我侭。
「快斗?」
黙ったままの快斗を、青子が覗き込む。
じっとその瞳を見返して、やがて快斗はふっと笑みを浮かべた。
「嫌じゃないぜ。」
告げる。
「ほんと?」
途端に目を輝かせる少女を、愛しいと思う。
快斗は、くすっと笑って、前を向いた。
「ま、一応な。」
「なによ、それ?」
「内緒。」
一緒に、みんなを幸せにする手段を考えるのも楽しいのかもしれないな、と思う。
快斗がみんなを笑顔にしたら、その笑顔を見て、青子も笑顔になってくれるだろう。
青子へのマジックなら、快斗が密かに考えればいい。
その辺のラインは、正直、まだよくわからないのだけれど。
「ま、そのうちわかるか。」
ひとりごちた快斗の声を聞き取って、青子が首を傾げた。
「何が?」
「んにゃ。」
なんでもねーよ、と笑った快斗に、青子はきょとんとしていたけれど、すぐ、にこにこと笑顔を浮かべた。
「一緒に勉強しようね。」
「めんどくせーけどなー。」
笑い合って歩く。
「青子?」
「うん?」
「教えてやっから、落ちんなよ。」
いたずらっぽく笑う快斗に、青子が膨れた。
「教えてもらわなくても大丈夫ですよーだっ。快斗こそ、落ちないでよ!」
「ほ〜、そっかそっか。青子、そんなにおれと一緒の大学に行きたいのか。」
からかう快斗に、青子が赤くなって怒る。
きっとこれから先、いくつもいくつも分かれ目があって。
もしかしたら、いつかはお互い違う世界を選ぶことがあるかもしれないけれど。
「おれは行きたいぜ?青子と同じ大学。」
「えっ?」
人気がない路地だから。
少しだけ傘を下げて、快斗はすばやく青子にキスをした。
「かっ、快斗!」
顔を真っ赤にして慌てる青子に、快斗は楽しそうに笑う。
「とりあえず、早く帰ろうぜ。寒い。」
「〜〜〜もうっ!!」
こぶしを握り締める青子の、触れ合った唇よりも寒そうな肩。
早く、暖めてやりたい。
少し足を速める快斗にも、青子は元気に飛び跳ねて追いついてくる。
たとえいつか違う道を選んだとしても、こうして並んで笑い合えればいい。
「青子、おれチャーハン食いたい。」
「何の話をしてるのよ?」
ずっと、この場所に帰ってきたい。
当たり前に・・・ここに居たい。
「んー?青子んちでこれから食べる夕飯の話だろ。」
「はぁ?快斗の分なんてありませんよ〜っ!」
べっと舌を出されて、なにーっ?と叫ぶ。
「嘘だろ〜?おれすっげ腹減ってんのに!」
「じゃあ自分ちに帰ればいいじゃない。」
「え〜っ?」
まじかよぉ・・・と、途端にしゅんとした快斗を見て、青子がクスクスと笑い出す。
「おばさん、夕飯作って待ってくれてるでしょ?」
「そっちも食うけど。・・・なぁ、ほんとにねーの?」
がっくり、と顔に書かれた快斗に、青子が溜まらず吹き出した。
「しょーがないなぁ。じゃあ帰りに買い物していい?」
途端に、快斗が元気になる。
「やった♪」
ケタケタと、楽しそうに青子が笑い転げる。
快斗は何でそんなに笑うんだよ、と膨れながらも、瞳の奥を優しく細めた。
いつか夢を叶えたら、
共に生きていく約束をかわそう―――。
〜fin〜
途中から違う話に・・・(^^;)。
能天気なお話が書きたいな〜と思っているんですけど、なぜこうなるんでしょう。
2002.3.21 ポチ