アメとムチ
慌しい一日が、ゆっくりと暮れていこうとしていた。
喧騒がゆるい反響を伴い、街には夕食の匂いが漂い始め、灯りだす外灯に、過ぎ行く人たちの表情が柔らかく映りだす。
ロイは、そんなひとときを非常に愛していた。
この街の、この国の、こんな時間を守る為にあるのなら、軍人だって捨てたものではないと思える。
――だがしかし。
目の前には己の影。
夕暮れ時の陽は刻一刻と赤くなり、同時に、目の前に置かれた今まさに目を通している最中の書類に被ってくる己の影は、刻一刻と長くなる。
外の街を歩きながら見るのであれば、夕陽に伸びる影というのも情緒があっていいとは思うのだが、今現在執務室に軟禁されているロイにとって、それは必要以上に哀愁を誘うものでしかなかった。
…自然、溜息が零れる。
目の前に落ちる自分の影というのは、どう見ない振りをしてみても、書類を見づらくするという点で無視することができないものだ。
ロイは、自身の影を見つめながら果てしなく我が身を憐れみたくなってきて、パタリとペンを置くと、無言で机に突っ伏した。
ロイを軟禁した優秀すぎる副官は、現在この執務室にはいない。
何かとちょっかいを出して仕事をしようとしないロイに、冷たい溜息と冷たい眼差しをよこし、更には『大佐の仕事の邪魔になってしまうようなので退室させて頂きます』という冷たい言葉と、どこから出したのか古ぼけた縄を置き土産に、数刻前、他の部下が仕事をしている大部屋へと引き上げてしまったのだ。
…もし室内にいれば、こんな体勢になった瞬間に鉛玉が飛んできているだろう。
ロイは、先程から疲れを訴えてきていた目をぎゅっと閉じた。ゆっくりと瞼から力を抜くと、すーっと楽にになる気がする。
大きな机は、軍事国家たる国に中央と東西南北のただ5つ構える司令部の、司令官専用執務室にふさわしく、重厚な色合いの一枚木で誂えられた立派なものである。
頬に触れる木の感触が、ああ優しい…。
ロイは思わずそこに頬擦りしようとして、5センチと動かないうちに、チクリと頬を刺され、動きを止めた。
横目に見れば、たった今までロイが向き合っていた書類が1枚。
紙の角が、ロイの頬にあたっていた。
ロイは、ガバリと起き上がる。
「あぁ〜もう!」
叫ぶと、一応処理済であるその書類を、乱暴に処理済の書類の山に突っ込んだ。
書類に刺された頬に残るむずがゆさに、ごしごしと拳でそこを擦る。
目の前に積まれた3つの山のうち、処理済の山が一番小さい。
「…ったく、嫌になるな。」
ぼやいて、それでもロイは、再び未処理の山から、新しい書類を数枚引き抜いた。
逆から陽が差し、この書類の山の影が目の前に落ちるよりは、自分の影の方が100倍マシに違いない。
そう思うと、仕方なくでもペンを持つ気になったのだ。
机の端に置かれている時計を見やると、そろそろ中尉が様子を見に来る頃合いだった。
「…今日はもう、怒られたくはないしな…。」
ポツリと零れた言葉に、ロイは思わず苦笑する。
怒られると知っていて毎日のように執務室を逃げ出す自分が、どうしようもなくバカでおかしかった。
(…まったく、どこの悪ガキだ私は…。)
本当におかしい。
また一組、処理を終えた書類を処理済の山――一番低いと言っても、ゆうに30センチはある――に加えようと手を伸ばしたところで、トントントン、と軽くて硬いノックの音が響いた。
聞きなれたその音に、ロイはその眼差しを扉へと向ける。
「ホークアイ中尉です」
思わず、頬が緩んだ。
「ああ、入りたまえ。」
返事と共に、ゆっくりと扉が開いて、朝と全く変わりないピシリとした纏め髪姿のリザ・ホークアイが姿を見せた。
リザは、そのまま丁寧に扉を閉めて、振り向くとカツリと小さな音を立て、敬礼する。
頷いたロイを見て、上げた腕を下ろすと、スタスタとロイの前までやってきた。
「…何をにやけているんですか。」
「……中尉…第一声がそれかね。」
がっくりとロイは肩を落とすが、リザは同情する素振りもない。
「…別ににやけてなどいない。」
はぁ…と溜息を吐いたロイに、リザは「そうですか」と感情のない声を返した。
「少しは真面目に仕事していてくださったみたいですね。」
「…まぁね。それが決裁済だ。確認してくれ。」
「はい。」
短い返答は、静かで歯切れがいい。
戦闘時の指示に対する応え方とは違うものだった。
リザは、積まれた30センチの山を両手で纏めて抱え上げようとして、一瞬動きを止め、半分だけを持ち上げた。
ロイの執務机の前にある応接セットのテーブルに運んでいく。
前からであれば、漂う厳しさの為なのか、はっきりとした存在感を纏って見える姿なのに、と、ロイは書類を運ぶリザの姿を見つめた。
(…やっぱり、小さな背中だな…。)
頼りになる背中だということは、よくよく知っているけれど。
それでもやはり、見るたびに、ロイは昔抱いた感想と同じように、その背中を小さいと思う。
残った半分も移動したリザが、書類を整えて背を伸ばす。
「大佐、お茶を淹れてきますから、少し休んで頂いて結構ですよ。」
言われて、ロイは苦笑した。
これではどちらが上司なのだか。
(今に始まったことじゃないがな。)
「…それなら中尉、これは解いていいのかな。」
ロイは、苦笑を浮かべたまま、自分の腰に巻きついている縄を軽く引っ張ってみせた。
リザが、初めて眼差しを緩ませる。
「どうぞ。…本当にそのままにしてらしたんですね。」
微かな笑みを含んだ声に、ロイは憮然と顔を上げた。
「君が解くなと言ったんじゃないか。」
「そうですけど。」
言いながら、リザが近づいてくる。
その手を軍服のポケットに差し入れたので、ロイは慌てて口を開いた。
「おいおい、まさか撃ち抜く気じゃないだろうね。」
リザは、呆れたようにロイを見て、溜息を零した。
「私が持っているのは銃だけではありませんよ。ナイフくらいは持っています。」
「…そうか。」
びっくりした、と胸を撫で下ろすロイに、リザは目一杯呆れた眼差しを向けながら、取り出した小さな折り畳みナイフを広げて、丁寧にロープに当てる。
プツリと音がして、ロイは自由になった。
「…はー。窮屈だった。」
「……そうですか。」
応えるリザは、淡々としているようだが、どこか気まずそうである。
さすがにやりすぎたと思っているのだろうか。
ロイは、クスリと笑うと、大きく身体を伸ばしてから立ち上がった。
「座りっぱなしは腰にくる。次回はせめて、伸びができる程度には長さに余裕がほしいものだな。」
トン、トン、と背を叩きながら言ったロイに、リザは、きょとんとした目を向けた。
ときおり、リザは驚く程無防備な表情を晒す。
その表情に目を奪われていたロイは、続いて発せられた言葉に崩れ落ちた。
「お歳ですか。」
「誰がだっ!」
窓に歩み寄っている途中だったのだ。
思わず、額を、ゴン、と窓にぶつける。
溜息が、微かに窓を曇らせた。
「…失礼しました。ですが大佐、余裕を持たせようとすると、椅子に犬を繋ぐような状況になってしまうと思うんですが…」
いいんですか、と、リザが小首を傾げる。
真面目に言っているのか、冗談で言っているのか、本気で区別がつかないところが凄い。
ロイが恨みがましい目でリザを見ると、リザは微かに苦笑した。
「運動不足ですよ、大佐。訓練をサボるからいけないんです。」
「…この仕事の山だぞ。そんな時間がどこにある?」
「その仕事の山は大佐の自業自得です。第一、昼寝の時間は豊富にお持ちではありませんか。」
まずい。ロイは慌てて話の矛先を変えた。
「そ、そもそも上官を椅子にくくりつけるなんて前代未聞だ!」
膨れて告げる抗議は、けれどもにっこりと笑った副官に押し戻される。
「言わせて頂くなら、大佐。職務中に執務室から逃亡して中庭で昼寝をしている上官も前代未聞です。」
前例がない事態に前例のない対処になるのは仕方がありません、と、続けられて、ロイは肩を落とした。
所詮、自分はこの副官に敵うわけがないのである。
「…誰か急な来客でもあったらどうする気なんだ。上官が来ても敬礼もできんぞ…。」
それでもそうぼやくと、リザが小さく笑う。
「そのときは得意の錬金術でロープを燃やすなりして立ち上がってください。」
「焦げた軍服で迎えろと!?」
「カラッポの執務室が迎えるよりも遙かにマシでしょう。」
違いますか、と、言われてしまえば、ロイに返せる言葉はない。
「……すみませんでした。」
再び窓に懐いたロイに、リザは珍しくも柔らかく苦笑すると、ロイに背を向けた。
お茶を淹れるために、執務室の扉に手を掛ける。
出る前に一度振り向くと、ふわりとした微笑を覗かせた。
「たまには少し、懲りてほしかったんです。」
それは副官の顔というには優しすぎて、ロイは一瞬言葉を失くす。
パタン…と、扉が閉まるのを唖然と見送って、ロイはやがて、ゆるゆると溜息を吐き出した。
「…言い逃げはずるいだろう…。」
さっきといい、今といい。
残された自分のこの有様は一体どうだろう。
彼女がまだ居るというのなら、虚勢を張ることもできただろうに。
ロイは、片手で顔を覆うと、深く息を吐いた。
手を下ろして、窓の外を見やる。
夕暮れに染まっていた街は、夕闇の中に溶けていこうとしている。
こんな時間なのに、リザは部屋の明かりをつけていかなかった。
それは、ロイがこの時間に窓から街を眺めるのが好きだと知っているからだ。
明かりをつけてしまえば、窓には室内が映り、外が見にくくなってしまうから。
どこまでも自分の意を汲み取ってくれる細やかな心遣いに気づくたびに、自分にはもったいないくらいの副官ではないかと思ってしまう。
そしてそれ以上に、意識的なのか無意識なのか、アメとムチの使い方が上手い副官には、自分以上に適した上官なんてありえないだろうとも。
手放す気など、毛頭ないのだ。
例えば今、こんな優しさは副官としての職務の範囲外じゃないか、などという、ほんの少し苦しい甘さに頭を悩まされていたとしても。
「……本当に、敵わないよ。」
懲りてほしいと言った顔。
掴まえてしまいたかった。
――なぁ中尉…。
音にならない声は、誰もいない部屋に幻のように溶けていく。
…ロープで括られてしまったことより、君が執務室から出て行ってしまったことの方に懲りたんだと言ったら、君はどうする…?
また、呆れ顔で小言を言うのだろうか。――本気だなんて、これっぽっちも思わずに。
ロイは小さく笑う。
…きっと、そんな戯言は、最後まで言わせてもらうこともできないに違いない。
今はそれでいいと思う。
手を離すつもりもないけれど、手を伸ばすつもりもないから。
――今はまだ、それがいい。
窓から見える街並みは、いつもの場所に、いつもの明かりのみ。
今日は無事に一日が終わりそうだと、穏やかに微笑んで、ロイは明かりをつけるために、室内へと足を向けた。
〜fin〜