知りたいと思った
その眼差しの先にあるものを。
そしていつのまにか、同じものを見つめていた。
その、ぴんと伸ばされた、背中越しに――…









JOKER







「少佐。ホークアイです。」
テントの外で声を掛けると、すぐに返答があった。
「ああ、入りたまえ。」
「はい。」
入り口の両脇を固めている兵は、戦場に出るとき、いつもロイと共にいる彼の隊の者だ。決まったメンバーの中で、ローテーションを組んでいる。リザの顔も、彼らに覚えられて久しい。
テントの護衛を、ロイはいらないと強固に反対していた。
いつだって真っ先に命を狙われる、イシュヴァール人の憎き敵、焔の悪魔。
そのテントの護衛に立つことが、ひどく危険なことだと承知しているのだ。
だから、彼らは実は任務中ではない。勝手に立っているだけ。
違う隊の者達は、皆彼らが任務中だと思っている。
それは、言うまでもなくヒューズが画策したせいだ。
任務中でなければ、あらゆる不都合が生じるから、と、周囲にそう思わせるべく手を打った。

リザがこの戦場に来てから、いつのまにか、ひと月が経とうとしていた。
士官学校に呼び戻される気配はない。
もう戻ることはないのかもしれないと、漠然と、リザは思う。それならそれで構わないとも。
ここは、人手が足りていない。戦闘は次から次へと行われるのに、失われた兵の7割が補充されればいいほうだ。
物資だけは、今のところきちんと送られてくる。
一体どこから集めてきた物資なのか、考えると食欲も失せるけれども、リザはそれを食べて、飲んで、生きている。
きっと、士官学校の同期が聞けば、酔狂だと言うだろう。この血の匂いの耐えない最前線に、好き好んで残る者など、きっといない。それでも、リザにはここに居るだけの理由があった。
明日には、自分が銃撃に倒れて、薄汚れた布一枚に包まれているかもしれない、その危険と隣り合わせでも、この場所にいるだけの理由。
この場所に踏み込んだときと、同じようで、少しだけ違う理由は、今日もリザに銃を取らせる。
軍人になったことを後悔しそうな毎日の中、信じていけるものを見つけたことは、リザにとって、とても幸運なことだった。

リザは、屋内と屋外を隔てる一枚の布を手で避けて、入り口をくぐる。
視界を遮るように吊るされたもう一枚の薄っぺらな布を、自分の背中側に落とせば、それだけで屋内だった。
簡素な作りだが、その中に一人となれば、それは破格の扱いだろう。
その一人は、どうやら食事中のようだった。
「おはようございます、少佐。」
「ああ、おはよう。君は朝食は?」
「済ませております。」
「そうか、残念。」
たまには食べずに来たまえよ、と、そう言って笑う少佐は、ようやくリザを部下として扱うことに慣れたようだった。
もっとも、リザに向けている眼差しは、士官学校にいた頃から、いや、もしかしたらそれ以前から、あまり変わらない。身近な人間に嘘をつくのは、案外苦手らしい。
一人じゃ味気ない、たまには女性と食事がしたい、などと、芝居がかった口調でぼやくロイに、リザは呆れた顔で近づいた。
そうぼやくのなら、こんなところで一人で食事をしていないで、皆が食事している広場に来ればいいのだ。女性くらい、たくさんとは言わないまでも、珍しくはないのだから。食事だって、戦闘中でない限りは、温かなものがふるまわれているのに。
何度そう言っても、ロイは朝食をこのテントで食べる。食事を部下に運ばせることもなく、手元にあるレーションをかじって過ごす。そんな状態では、たとえばリザが共に食事をしても、味気ないことに変わりない気がする。
ここで食事をする理由は単に移動が面倒なだけのようなので、同情の余地はない。
「ヒューズ中尉は…」
一応幾つかの死角が用意されているテント内を、リザは見回す。
見えない場所にも気配はないことを不思議に思って尋ねると、さぁ、とロイは肩を竦めた。
「アイツは、あれで山ほど仕事を抱えているからな。私につきっきりとはいかないよ。」
「そうなんですか。」
淡々と答えたリザは、ロイの周りに水分がないことを見咎めて眉を顰めた。
「…少佐、食べるときは飲み物を飲んでください。」
視線をきつくしたリザに、ロイは動きを止める。かと思ったら、いきなりゲホゲホとむせ始めた。
ぼそぼそと口に残る、けしておいしいとはいえないレーションを、それだけで租借するのはつらいだろうに。
ささやかなことをめんどうがるのは、どうも戦場だからというわけではなく、単に彼の性格のようだ。
「……そういうときに困るでしょう。」
「う、そ…か?」
リザは、数歩歩くと、棚代わりにされている木箱の上から、水差しを取り上げる。
隣に置いてあった銀色のカップに注いで、ロイへと差し出した。
「少なくとも、水がないわけではないんですから。飲めるときにきちんと飲んでおかないと、あとで後悔するかもしれませんよ。」
ロイは、受け取った水をごくごくと飲み干して、ほっと息をつく。
それからようやく、
「そうするよ。」
と、短く答えた。
溜息をついたリザに、機嫌をとるようにぎこちなく笑ってみせる。
そんなところは、本当にどうしようもない人だと思う。
どうしようもないからといって、嫌なわけではないのだけれども。
「今日の作戦、変更なしとのことです。」
告げると、そうか、と、ロイの表情が改まった。
「…君は、K地点でいいか。」
「はい。そこがベストかと思います。」
「まぁ、そうだな。…それと、毎回言うが、」
「従えません。」
リザは、キッパリとした口調で、言いかけたロイの言葉を遮った。
何を言うのかわかりきっていたし、もう何度も聞かされたその命令は、承服できない。
ロイは、眉を顰めた。
「君はまったく…話を聞くくらいは」
「必要ありません。毎回言うこと、なのでしょう。」
リザは、そっけなく言って、ロイが飲み干したカップを受け取った。
ロイに背を向け、木箱の上に戻す。
「上官命令だと言っても?」
リザは振り返り、その眼差しで、まっすぐにロイを捉えた。
「聞けません。…命令にするおつもりですか。」
今この戦場では、上官命令違反は即『死』を意味するといってもいい。平常時とは違うのだ。戦えないもの、戦列を乱すものはいらない。
リザは、逆に問い返し、ロイを見据える。
それだけで不敬罪だといわれてもおかしくはない。わかっていても、引けないことはあるのだ。
リザは、ロイを守りたいと思った。実際に、自分はロイの護衛だ。彼が今言おうとしている言葉に頷いてしまったら、リザは自分の存在意義を失う。自分の手の届かない場所に、ロイが行ってしまう。そんなことは、とても容認できるものではない。
リザは、知っていた。
ロイはきっと、それを上官命令にはしない。
リザを、上官命令違反者にしないために。
命令違反者は、最前線に送られる。ここは既に最前線だから、きっとリザ一人の命を消すことなど簡単だ。だからこそ、ロイにはできないことがある。
そして、ロイが優しいことを、リザは知っているのだ。
部下の犠牲を一人でも少なくしたいと願っていることを、知っている。
リザは部下であり、さらに部下となる以前から、ロイと面識があった。
どちらの立場のリザも、ロイはきっと大切に思ってくれているだろう。
利用して悪いと思うけれど、リザだって譲れない。
ロイが周りの者に死んでほしくないと願うように、リザは、誰よりもロイに、死んでほしくなどないのだ。彼を守るためなら、彼自身だって利用する。
リザを、ロイはじっと見つめた。
負けじと睨み返すリザとロイの間に、無言の想いが行き交う。
やがて、諦めたのはロイだった。
「…頑固だな。」
溜息交じりに言われて、リザは眉を寄せた。
「……光栄です。」
「そうじゃなくて。」
ロイは苦笑する。
とても『光栄』だという顔はしていないリザに。
今日も、ロイの負けだった。
「我々がやられたときに、離れた場所にいる君まで敵の手に落ちることはないと言っているだけだろう。」
「だからあなた達が敵と戦っているうちに、見捨てて逃げろというのですか。あなたらしくもない。」
リザが言い捨てた言葉に、ロイは少し驚いた顔をした。
「…そうだろうか。」
「そうです。らしくありません。…諦めの悪さは天下一品だと思っていましたが、違いましたか。」
ロイは、目をまん丸にして、リザを見上げた。
「…私か?」
「はい。」
短い返答に、瞬いたロイが破顔する。
「そうだったか。」
笑い出したロイを見て、リザは真顔で頷いた。
「そうです。…私は、ジョーカーだと思えばいいではありませんか。」
「ジョーカー?」
「力不足だとは思いますが。敵の手がすぐに伸びない場所にいる切り札だと。」
「…なるほど。」
ロイは、顎を指先で支えるような仕草で、しかつめらしく頷いた。かと思うと、リザを見てふっと目を細め、堪えきれないように笑い出した。
何を突然、と、訝しげな眼差しを向けるリザに、ロイが口を開く。
「ホークアイ候補生、『鷹の眼』というのを聞いたことがあるか。」
「は?」
リザは、一瞬間の抜けた声を出してしまい、慌てて頬を引き締めた。
だが、ロイが言う単語に聞き覚えはない。
「鷹の眼、ですか。――存じません。なんのことです? 渾名のような…。」
「渾名……まぁ、間違えてはいないか。」
ロイは、あからさまに含みを持ってくすくすと笑う。
思わず不機嫌な眼差しを向けてしまったリザに、ふざけて両手を挙げると、
「君のことだよ、ホークアイ候補生。」
と、白状した。
今度は、リザが目を点にする番だ。
「私…ですか?」
「そう、君だ。名前の通りだろ、ホーク・アイ――鷹の眼だ。」
リザは、唖然とロイを見返した。
「…誰が、そんな…。」
「結構有名だぞ。絶対絶命と思った瞬間を救われた者にとっては、騒ぎたくもなるのだろう。実際、それだけの腕を持ってる。」
おかしそうに言うロイに、リザは首を振る。
「買いかぶりです。」
そう、買いかぶりだ。
気づくのに遅れたこともある。銃を向けるのが間に合わなかったこともある。そして、狙いを外したことだって。
…救えなかった命が、どれだけあるか。
戦場で、それを数えることは無意味かもしれないけれど、スコープに捉えながら倒れていった姿が、脳裏から離れない。
それなのに、ふざけた名だ。
「…そう言うな。」
ロイは、苦笑して立ち上がった。薄っぺらなマットは、軋む音さえ立てない。
上げられたロイの手が、知らず俯いていたリザの頭を、宥めるように軽く叩いた。
「誰でもそうだ。全てを守ることはできない。だが、君にしか守れない命があって、実際に救われた者がいる。…自分のことを、力不足などと言う必要はないよ。立派なジョーカーだ。」
視線を上げたリザに、ロイが苦笑する。
「…それが褒め言葉かどうかは、わからないがね。」
リザは、思わずつられて笑い返した。
「本当ですね。」
きっとそんなこと、この場にいる誰にもわからない。
でも、それでもロイは進もうとする。
できないことは、いつかできるようにと黙って心に刻み込んで。
できることを見つけて、進んでいく。
その背中に惹かれたのだと、リザは思った。…絶対に、口にするつもりなどないけれど。
リザは、彼が案外お調子者だということもまた、きちんと知っているのだ。
「では、やはり私は、退散する必要はありませんね。」
ニコリと笑ったリザに、ロイが言葉に詰まった。
「…そういう意味で言ったつもりはないんだが…。」
こういうときだけ笑顔というのはどうなんだ、と、ボソリとロイが呟く。
聞こえていながら聞こえないふりをしたリザは、それでも拗ねたような表情がおかしくて、微かに笑った。
先程の確信犯の笑顔とは違う、無意識の笑みで。
ロイは、動きを止めて黙り込む。
それを了承と捉えて、リザは敬礼を返した。
「では、作戦の開始時刻30分前にもう一度伺いますので。」
「あ? …ああ、わかった。」
リザは、もう、これで二度と見捨てて逃げろなどと言われないだろうと、そんな満足を満面に浮かべて、背を向けた。



颯爽と退室していく、その細い背中を見送って、ロイは深い溜息を零した。
こんなときばかり、彼女はあの、どこか無邪気さが滲む笑顔を見せるのだ。
なんとかしてほしい、と、頭を抱えたいような思いと。
反面で、間の抜けた顔を彼女に悟られなくて良かったという、たぶん、安堵と。
それらがない交ぜになって、ロイの心境を複雑なものにする。
少しはこちらの心中を慮ってほしいと思う。
けれども、やっぱり…気づかれなくてよかったのだろう。
知られたくないことはあるのだ。たとえ今更と言われようとも。
…もしかしたら、あの食えない親友くらいは気づいているかもしれないけれど。



――リザの正直な笑みに、いつからかロイは、果てしなく弱かった。




〜fin〜






たぶん、オフ誌『蛍』の後くらい。
2006.1.31 文月 優


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